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万感の書

シネマに溺れる

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2010.05.01

縄文フリークスPONのこと

Ponaki_1975 宿無しの 旅の路上の 乞食(バム)の逝く(雲爺JUN)

 PONが、死んだ。チェルノブィリ24回忌(原発事故から24年目)だったこの4月26日午後2時20分ころ。訃報はメーリングリストや、ブログ、ツィッター、mixiなどを通じて多くのひとが知ることになった。PON本人はPCの操作も知らない化石のような世代に属していたにも関わらず。
 PONってだれ?と思われることだろう。PONがPCを操るはずがない。かれは、この世界を生きた真に「縄文時代」の野蛮人だった。1960年代の初め頃、バビロンシティ新宿にこのような野蛮人(聖なる野蛮人)、放浪者(バカボンド)、ホーボーやビートニクスが集い、集まったのだ。かれらは自ら「部族(TRIBE)」と名乗った。そして、その集ったカフェ、そこが「新宿風月堂」だった。
 その頃ボクは新宿の夜を徘徊する行き場もなく、家もないフーテンで、歌舞伎町の入り口の銀行前で、酔客相手に似顔絵描きをしていたひとりの侏儒と出会ったのだ。それが、PONで、似顔絵描きのPONはまるでインドのサドゥのように結跏趺坐をしてマントラを唱え、焼酎をガブガブと飲んだ。

 深夜ジャズ喫茶から「風月堂」へ鞍替えしたボクは、こうして山尾三省、サカキナナオ、マモ、ナーガ、秋庭ナンダ、シロなどの「部族」グループの連中と知り合うことになる。「部族」が「部族」と名乗った年、それが1967年で、アメリカではサンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークで「Human Be'In」がアレン・ギンズバーグ、アレン・コーエンなどの呼びかけによって行われ、この年はのちに「Summer of LOVE」と呼ばれたのだ。
 その同じ年「Human Be'In」と呼応したアングラ新聞『プシュケ・ジャーナル』が刊行され、さらに年末には目も彩な多色刷りの新聞『部族』が刊行された。その表紙と裏表紙を飾ったのが、PONのイラストだった。そこには、息を吞むようなヒンドゥ的な世界が踊っていた。たった三色のカラー刷りが、まるで多色刷りのサイケデリックな色合いに見えたのは、PONの絵の力量によるものだった。

 「部族」は、トカラ列島の諏訪之瀬島をはじめとする島々や、山奥などの辺境にコミューンを建設しだした。その中でも、PONのつくった無我利道場はヤポネシアからの独立を射程においた過激な運動だった。直接には奄美の枝手久島に計画されていた石油備蓄基地(CTS)の反対闘争だったが、地域を二分する対立の中で、無我利道場は賛成派の肩をもつ右翼の車の突入でケガ人を出すまでの犠牲を払うことになった。
 PONは「おまつりポンタ」という異名をもっていた。宇宙大のまつりを考えていたPONは、新宿のグリーンハウスから八ヶ岳山麓、位山どこであれ、体制にまつろわぬものとして万物をまつる祭司のような存在だった。ボクが、PONと再会したのも「88いのちのまつり」の会場だった。
 さらに、晩年のPONはマリファナ解放運動の先陣を切る。PON自身が初期の逮捕者と言う因縁もあってこの国では、古代からの有用植物であった「麻」を戦後、GHQの押しつけもあって「麻薬」に指定した。それでも、60年代半ばまではこの「麻」は、ありふれていて都会の片隅に群生をつくっていたりした。
 ポンはこの我が国にとっても伝統的な植物「麻」に「聖なるしるし」を見たのであるらしい。桂川大麻裁判の支援グループをつくったり、その広報・資金稼ぎの「アナナイ通信」などを刊行するその信念と情熱は晩年まで一貫していた。

 ありがとう!PON!お前の遺志はボクたちと若い世代が引き継ぐだろう。
 お前はシバ派のサドゥだったとボクは思っている。最後におまえと一緒に唱えよう!
 シャンカラ・シバを!
 ボン・シャンカール!

 〽シャンカラ~シバァ~♪
 ♫シャンカラ~シバァ~♪
 ♬シャンボーマハデバ♪
 ♪シャンカラシバァ~♪
 (永遠に繰り返す!)

Photo by aquilha/All night Rainbow Show at 1975

(4月30日にアースダムで配布された「ねたぞく新聞/ピースパイプ」にボクが寄稿した文章です。当日、Barスペースで読み上げました。写真提供の広島のaquilhaに感謝します。)

2010.04.26

浄化とモルト・ウィスキー/チェルノブィリ以前以後

忌まわしき
チェルノブィリの記憶
それもまた人類の歴史か
24回忌としての今日。

ボクは持っている
チェルノブィリ原子力発電所の事故以前の麦で
つくられたモルト・ウィスキーを。

「天使のおすそわけ」で
すこし減ったそのビンには
チェルノブィリ以前の豊かな地球の恵みが
詰め込まれている

ボクはウィスキーの箱に書いている
「忌まわしきチェルノブィリ事故以前」と。

四半世紀の忌々しい記憶として
来年こそは口をあけよう

ピュアな大地の恵みを
思い出すために
ピュアな地球を思い出すために
……琥珀色の液体に
きざまれた
チェルノブィリ以前の世界を。

チェルノブィリは
ニガウリの意味だった
まるで 黙示録が現実になったかと思った
聖書の予言が 現実になったかと思った
1986年4月26日の 恐怖の記憶
ニガウリは 地獄の苦さだった

それらが 浄化されるものなら
ボクは 事故以前の 豊かな大地の恵みを
地上に 降り注いでもいい
シングル・モルトの口をあけて
琥珀色の液体を
大地に 飲ませてもいい

女神ガイアが 酩酊して
ふたたび ピュアな大地が
取り戻せるものであるなら……
決して 惜しくはない。

(2010年4月26日チェルノブィリ事故24回忌に)

2010.01.25

ユネスコ村の思い出(参考写真)

Unesco_village_2 参考写真としてアップしたユネスコ村の記念写真を見て我ながらあらためて吃驚してしまった。まず、クラスの人数の多さだ。数えてみたら52名くらいいる。いわゆる「団塊」と言われるボクらの世代だ、ベビーブーマーとしての面目躍如の数である。
 さらに、後ろの方に並んでいるのは父兄だろうが、遠足に同伴したお母さんたちがほとんど着物姿である。昭和30年代は、まだよそ行きの装いは女性は着物だったのだろうか。洋装の大人の女性は見える限りでは、担任教師と子どもをヒザにのせているお母さんくらいだ。
 またまわりの道もアスファルト舗装されていないようである。

 中学生のときにユネスコ村を再訪したことがある。友人と往復500円の「小さな冒険」と名付けて当てずっぽうに電車に乗りハーフ判カメラをかかえて出かけた先がたまたま狭山湖だったのだ。その頃、長じてその近くに住むことになるなんてユメにも思わなかった。
 そして、狭山湖周辺を歩き回り、ユネスコ村へも入り、小学生の遠足で記念写真を撮ったそのオランダ風車小屋で写真を撮り合ったのだった。経営的に立ち行かなくなったのか西武鉄道がつくった「ユネスコ村」は、もうない。

2010.01.18

あの時代の少女/浅川マキの死

Maki_asakawa とり急ぎ書いておこう。浅川マキが死去した。もっとも早かった時事通信の訃報によれば、公演先の名古屋のホテルで17日夜、倒れているところを発見され病院へ搬送されたが、既に死亡していた。急性心不全とみられると言う。享年67歳だった。

 思えば、不思議なシンガーだった。ポップスでもなければ、歌謡曲でもなく、ましてフォークでもない。そのバックミュージシャンはジャズメンが多かったが、ジャズのようでもあり、またシャンソンのようでもあった。登場したときは、ニューミュージックという謳い文句だったような気がするが、ジャンル分けは難しくマキのアルバムのタイトル通り「浅川マキの世界」としか言い様がないものだった。
 むしろ低い声でつぶやくように、語るように歌ったその歌はダークで、真っ黒な服を好み長い黒髪を垂らしてフテたように歌うのだった。そのスタイルは、デビューした67年から変わらなかっただろう。本人はどうおもっていたか知らないが、ボクらは彼女をその頃の新宿を背負った歌手だと思っていたし、マキのような感じのフテくされた家出少女はフーテンとしてどこにでもいたからだ。
 蠍座での初ライブを演出した寺山修司の「天井桟敷」にいたもうひとりのマキ、カルメン・マキもそのような薄幸の美少女イメージだった。
 ボクの詩「風月堂の詩(うた)」にこのようなフレーズの箇所がある。

 絶望のためには
 白い薬が お似合いだと
 見知らぬ少女は うそぶいて
 暗い新宿(ジュク)の闇に 消えた
 病気持ちの処女として……

 ある時代を荷なった女優や歌手というものがいる。カルメン・マキや女優では桃井かおりや、そしてシンガーでは浅川マキだろうか。彼女たちはボクが詩の中にえがいたあの頃のフーテン娘の悲しい性を背負っているような気がしてならない。

 さ、よ、う、な、ら、……浅川マキ!

2010.01.17

15年目の風景

 中身はともかく(まだ終わっていないのだ)阪神大震災のからみの番組なんだろうと、見だした『その街のこども』という特集ドラマは、いわば神戸周辺を彷徨い歩くような番組だった(て、まだ終わっていないのだが……)。
 サトエリと森山未來という神戸出身の俳優が、神戸弁でセリフともしれない対話をくりひろげながら、夜の神戸を彷徨うのだが、その風景を見ていて、ボクも思い出したのだ。神戸、三ノ宮、長田などの風景を……。

 そう、ボクは震災から2年目だったかの神戸をボランティアとして訪ねたことがあって、もうほとんどの瓦礫は片付けられていたが、高速道路はまだ復旧しておらず、街は空き地だらけで、あちこちに花束が飾られた場所があり、プレハブ建ての店があり、市民野球場には仮設住宅が建ち並んでいた。ボクはあるNGOの現地事務所に宿泊させてもらって担当する仮設住宅を訪ねたり、いま困ったことはないか聞いて廻ったり、手伝えることは手伝ったり、行事に参加したりした。
 仮設住宅での老人の一人暮らしで「孤独死」が取りざたされていた頃で、実際に櫛の歯が抜けるように一人暮らしの老人たちが、誰にもみとられることなく死後数日経ってから発見されるということが、日常茶飯事に起こっていた。
 仮設住宅は、その殺風景さと言い、何かに似ていると思っていたが、それがなんだかいま気づいた。まったく同じプレハブ住宅が立ち並ぶ仮設住宅は、そう、炭住に似ていた。あの炭坑地帯の居住環境としては、最悪のあの貧しい炭坑夫の家族が住み暮らす家の佇まいに似ていた。

 休みの日だったかに、長田の現地事務所から鷹取へ行き、鷹取教会と「FMワイワイ」のスタジオを訪ねたこともあった。
 これは、東京に神戸のメッセージを伝えに歌いに来ていたおーまきちまきのバックをしていた野村アキの関係だった。かれは、その頃部落解放同盟の専従を離れて「FMワイワイ」のディレクターをしていたのだった。

 こんな関わりの話をするつもりではなかった。そう、神戸の風景だ。それも観光地としてではない、庶民的なそれでいてあの時だからこそ垣間見えた風景の話がしたいのだ。

 そんな風景が、その『その街のこども』というドラマの後ろに垣間見えたような気がしたのだった。傾いたままの電柱、公園の中でブルーシートで雨風をしのぎ暮らしていたひと、礎石だけ残った空き地の枯れた花束、倒れなかった地蔵堂、火事を食い止めたという話の伝わる両手を広げたキリスト像、モチ搗きや盆踊りで屈託なく笑い合う長田の被災者のひとたち、識字教育学級のおばちゃんたち、現地事務所の近くにあったプレハブの居酒屋……大昔にヒッチハイクの中継地として行ったことのある神戸は、こうしてボクの思い出を限りない風景で埋め尽くしてくれた。

 そしてまた、さらに震災後に一年を積み重ねた神戸が始まるのだろう。

2010.01.09

ディープ浅草(被官稲荷社)

Hikan_sinmon 本殿改修中の浅草寺の東隣に、これまた初詣客が列をなしていた浅草神社がある。そしてその奥にひっそりと小さな稲荷神社がある。間口約1.5m、奥行約1.4m杉皮で屋根を葺いたそれは安政2年の創建当時のものであるという。大正時代に覆い屋を作り雨風から守られている。被官稲荷社と言う名の社(やしろ)だ。
 鳥居の脇に台東区教育委員会が建てた案内板があり、この被官稲荷社の由来が分かる。
 その案内板によれば、安政元年、新門辰五郎の妻女が、病に伏した時、京都の伏見稲荷に祈願した。すると、病気が全快したので、伏見から勧請してこの地に稲荷社を建てたと言う。
 その案内板には、浅草寺伝法院新門の門番を命じられたので、その名の由来があり、町火消し十番組の組頭だった、と位しか新門辰五郎については書いていない。きっと教育上の配慮が働いたのだろう。
 と言うのも、新門辰五郎は配下に三千人もの手下がいたと伝えられる侠客だったからだ。若干24歳で浅草十番組「を」組を継ぎ、喧嘩と火事は江戸の花といわれるその両者を仕切って名をはせた。
 それだけではない。徳川慶喜が上洛した際には、その身辺警備、二条城の防火に心を砕き、洛中のパトロールもかってでるという活躍ぶりで、慶喜の全幅の信頼を勝ち取っている。慶喜の大奥の妾に娘を差し出してまでいる。
 新門辰五郎は明治8年に浅草で死去する。76歳であった。
 剛胆な人物だったらしく、その辞世の句は酒と女が好きで、食道楽だった辰五郎本人を表すような一句だった。

 思いおく 鮪の刺身 河豚の汁 ふっくりぼぼに どぶろくの味

 ちなみに江戸庶民を代表するような存在として新門辰五郎は幕末時代劇によく登場するが、最近では中村敦夫が(当初は藤田まことがキャスティングされていた)演じた『仁〜JIN〜』がある。打ち壊し(それが江戸時代の消火法)が専門だった辰五郎が仁のために診療所(病院)を建てようとする姿が印象的だった。ま、結局竜頭蛇尾のTVドラマだったわけですが……。

 この神社で領布しているキツネの置物が、なんとも愛らしく、つい求めてしまった。いま、その雄雌(?)二体のおキツネさまとボクとで、油揚げを取り合っているくらいである。

(写真)被官稲荷社本殿。間口1.5mの小さな社殿。安政2年当時のもの。(撮影:フーゲツのJUN)

2010.01.07

ディープ浅草(アリゾナ)

Arizona_kitchen 実は川田晴久(義雄)は根津の生まれらしい。時代は、違うが根津と言い浅草と言い、親近感を禁じ得ない。小石川の小日向(現文京区春日町)で、明治12年に生まれた文学者もこよなく浅草を愛した。とりわけ千葉県市川に住んだ晩年は、タクシーを飛ばして浅草へ通うこともしばしばで、浅草のストリップ小屋で踊り子に囲まれ、談笑し、「アリゾナ」でトマト煮込みのシチューや、ビールを片手にきままな一人暮らしを楽しんだ。永井荷風である。
 その荷風が毎日食した食事の記録でもある有名な「断腸亭日乗」には、荷風が踊り子を引き連れて「アリゾナ」へ繰り出した記述もある。

 「昭和24年7月16日。晴。哺下大都劇場楽屋。踊子等とアリゾナにはんす。此夜上野公園に花火あり。」(原文漢数字)

 どうやら先生はこの日、御贔屓のストリップ劇場の楽屋に入り浸り、そのまま踊り子たちを引き連れて「アリゾナ」で大騒ぎをしたらしいのです。もっとも、先生が「アリゾナ」へ通いだしたのは、この年の7月12日、つい四日前のことでございました。
 先生は書いてらっしゃいます。

 「昭和24年7月12日。晴。午前高梨氏来話。小川氏映画用事にて来話。晩間浅草。仲見世東裏通の洋食屋アリゾナにて晩食を喫す。味思ひの外に悪からず値亦廉なり。スープ八拾円シチュー百五拾円。」

 昭和24年の物価水準で80円、150円というのがどれほどのものかというと、山手線初乗りが5円。教員の初任給が4,000円ほどである。けっして安くはないと思う。平成21年正月で、「アリゾナ」はハヤシライスが1,200円、トマト煮込みのものが1,400円くらいだった。もちろん、それにライス、パンがつく。相対的には現在の方が、安く食べられているという感じだ。

 「アリゾナ」はその名前から推測がつくように、アメリカンそれも西部料理のようだ。トマトベースの煮込み料理がメインで、ある意味ではワイルドな料理なのである。それを、ことのほか先生が気に入ったのは、自身の若き日の1902年に渡米し、6年あまりNYやリヨンで銀行員として働いた体験があるのかもしれない。その折に覚えたアメリカン料理の味が懐かしかったのかもしれない。先生はそののち、パリに遊学する。先生にはこの頃の見聞を書いた『あめりか物語』、『ふらんす物語』という作品があるのだ。

 現在の御亭主の話では、全面改装しており永井荷風が来店していた頃とは、つくりもレイアウトも違うという。それでも、テラスに面した窓が、全面引き戸のガラス窓だったり、暖炉があり、レンガが壁面に使われている等店はどことなく古めいた感じがするのだ。そのテラス席もペットの犬をつれたお客さんが座ったりと、充分活用されている。一段低くトイレがあり、そこに手すりがついているのも面白い。

 日和下駄に、蝙蝠傘、ロイド眼鏡、上下黒っぽいスーツで決め、ソフト帽をかぶった姿で、明治生まれにしては長身(175センチ余りあったらしい)だった荷風は、風貌からそうは思われないようであるが、実は男としてのダンディズムを生きたのであった。

(永井荷風の著作権は、この2010年元旦で切れ、はれて荷風は公に人類の財産になった。「青空文庫」での荷風作品の入力作業がすばやく進まれることが望まれる。ボクたちは待っています。ボクらのブログがタダで読まれるように、文豪と呼ばれるあなたたちの作品もそうなることを!)

(写真)「アリゾナ」の旧看板(撮影:フーゲツのJUN)

2010.01.06

ディープ浅草(喜劇人の碑)

Memorial_tablet 4日、全くひさしぶりに足を伸ばし浅草へ初詣に行く。仲見世通りの参道を人ごみにもまれて歩いていたら、新年年頭の気分になれた。やはり初詣とか、七福神巡りとかご年始の挨拶だとかそのようなイベントを組み込まないと、「気分」というものは高まらないのかもしれない。善男善女のような顔をして厳しい世相の中、神にも仏にも必死にすがる気持ちで群衆は仲見世通りをそぞろ歩いているのかもしれないではないか。衆生のひとりとしてその中へ紛れ込むのだ。

 今回、もちろん初詣もあったが、浅草まで足を伸ばしたのにはふたつの理由があった。昨年知り合った墨絵イラストの素敵な絵を描かれる方とお会いするのと、もうひとつ浅草寺の境内にあると知っていた浅草喜劇人が建立した「喜劇人の碑」を探すという目的だった。
 到着したのは昼時だったので、素敵なイラストレーターの方と落ち合った後、さっそく永井荷風が好んだ洋食レストラン『アリゾナ』へ行く。しばらく閉まっていたらしいが、近年、改装して営業している。ボクは日本オリジナルの洋食メニューたるハヤシライスを注文する。どこか懐かしいレトロ・モダーンな味だった。浅草に20年もお住まいのイラストレーターの方も初めての入店だったとか。

 人ごみにもまれて浅草寺の初詣をすますと、さっそく件の碑を探しにかかった。すこし手こずった。それというのも境内内にはあちこちに飲食のテントが建ち、まるで縁日のような様相を呈していたからだ。
 しかし、それはほどなく見つかった。境内のはずれに石碑ばかりが集まった一画があってその中に「喜劇人の碑」はあった。
 碑の表には笹川良一による碑文「喜劇人の碑」があって、裏面に物故した喜劇人の名前が彫ってある。そして、なんとその最初に刻まれた喜劇人の名前が「川田晴久」だった!(写真)
 「川田晴久 昭和三十二年六月二十一日(五十一才)」とある。享年はこの場合数えのようだ。腎臓結核だった川田は、1957年のこの日に尿毒症を併発して死去している。50歳という若さだった。
 さらに「古川ロッパ、八波むと志、清水金一、堺駿二、榎本健一、山茶花究、森川信、柳家金語楼……」と続く。ボクが少年時代に浅草に遊びにきていた頃は、このような碑は知らなかった。それもそのはずで、この「喜劇人の碑」は、昭和57年(1982)に建立されたものらしい。
 多くの参拝客はその碑の近くで、思い思いに休んだり飲食したりしていたが、ほとんどそんな石碑には関心がないようであった。ボクが、自分の娘にたしなめられたりしながら大騒ぎしていると、近くで弁当を食べていた着流しの初老の紳士が、「ほう、川田晴久をご存知ですか。見かけによらぬお年ですな。」と声をかけられた。そして隣のイラストレーターの方を見て、「お若い方はご存知ないだろうが、川田晴久は美空ひばりを育て……」と、ボクが、先日の記事に書いたようなことをお喋りになる。御年70歳であられるお方だった。

 なんの説明も書かなかったが、昨日のノヴァ!の告知に貼付けた写真が、その浅草の「喜劇人の碑」の写真だったのです。

2009.12.20

NPOが運営する街の映画館保存運動

Scaraza_cinema いや、ボクもまったく知らなかったが、「川越スカラ座」はプレイグラウンドというNPO法人が運営するユニークな映画館だったのだ。
 「川越スカラ座」は、その前身は「一力亭」と言う寄席で、なんと明治38年に出来た。40年に「おいで館」、大正10年に「川越演芸館」という名前で市民に長く親しまれてきた演芸の殿堂だった。それが、映画館になったのは昭和15年で、戦争中に「川越松竹館」として生まれ変わる。さらに、戦後の昭和38年に「川越スカラ座」となって44年間の歴史を積み重ねて2007年に閉館する。閉館の話が持ち上がった頃から「川越の町から映画館の灯を消してはいけない」と言う声があがり、NPO法人が動き出したということらしい。運営主体が、NPO法人に引き継がれてから2年目が過ぎ、「川越スカラ座」は、映画監督のみならず、地域の文化活動の貸しホールとしての役目も担っているらしい。もちろん、ボランティアも重要な支え役になっているが若者も集う交流スペースの役割も果たしているらしいのだ。
 この話を聞いたとき、ボクはとっさにこのあいだまでやっていた川越が舞台のNHK連続TV小説『つばさ』に登場した映画館を連想したのだが(主人公つばさが働く地域FM局は長い歴史を持った元映画館だった)、それは半分くらいは当たっていてあと半分は別のところの話とくっついた設定だったそうだ。

 この話を聞いて、ボクはボクにとっても懐かしい「根津アカデミー」や、他の「名画座」がこのような形と情熱で守られなかったことに残念な気持ちがした。先日行った目黒にも権之助坂の坂上にあった小さな映画館など、ミニシアターと言うか地域に親しまれている映画館を失いたくないし、そのためにはもっとこのような映画館にシネマを見に出かけなければならないんだと思ったのであった。
 「川越スカラ座」に関しては、いま「映画会員」になろうかと検討しているところです。

(写真)「川越スカラ座」正面写真。

2009.10.09

風神のもたらしたもの

 (8日)午後から台風の風は弱まってきた。ならばと根性を出して、洗濯を始める。干しだしたのはいいのだが、幾度も風にあおられて竿ごと吹き飛ばされた。

 しかし、ひとつだけいいことがあった。強い風にのって何処とは知れぬ金木犀の香りが、漂ってきたのだ。ボクがこの小さな花をつける樹木の芳香とも呼ぶべき香りが好きなのはこれまでも何度も書いている。だから、ボクは思い切りその香りを胸一杯吸い込んだ。そして、そぞろ金木犀の咲く季節になったのだと気づいたのだった。

 もうひとつ、耳を澄ますと、上空を通り過ぎるジェット気流のような風のうなりが聞こえた。少し、不安を呼び覚ますようなこの天空の風のうなりを聞くのが、幼い頃から好きだった。一番好きなのは、春先のあの春一番と呼ばれている風のうなる音だ。この風が吹いてくる頃には、待ち遠しかった春の訪れとともに、ふるさとからの呼び声を聞くような思いになる。ボクは長崎で生まれた。その街では、スコールのような雨上がりの後、奇妙な光に街が包まれることがある。
 今日の洗濯物の中にはシーツがあった。それが、パタパタと風を含んではためく。一家離散ののち、やむなく上京して、日暮里の谷中銀座の近くに住んでいた頃、谷中銀座のどんづまり、夜店通りとぶつかるT字路に信用金庫の店舗があって、その屋上にかかげた社旗がパタパタとうるさいくらいにはためく。その頃、ボクは息が詰まるほどの思春期のさなかにいて、その旗の音が苦しくてならなかった。

 台風は、異様な低気圧をもたらし、その影響をひとは心理的にうけるらしい。騒擾(そうじょう)と言うのだろうか、そんな何かを置き忘れたようないそいそした気分は台風の相乗効果だったのだろうか。

2008.09.19

9/21池袋モンパルナス探訪ツアー・要項

Atorie_west_1 次回のE.G.P.P.100に設定したテーマのために久しぶりに電脳・風月堂主催で「池袋モンパルナス探訪ツアー」を実施したいと思います。大正デモクラシーの自由な気風をひきずって昭和10年ごろをピークとして「池袋モンパルナス」と詩人小熊秀雄によって名付けられたアトリエ村が豊島区長崎、千早町、要町あたりに乱立しました。詩人、画家、モデルが入り交じって繰り広げた日中戦争そして太平洋戦争前夜のつかの間のアート・コミューンとでも言えそうなアトリエ村群だったのです。
 そして、その「池袋モンパルナス」を彩ったひとたちには靉光、松本竣介、寺田政明、吉井忠、熊谷守一、丸木位里、丸木俊、野見山暁治、長沢節、長谷川利行、佐伯祐三、古沢岩美、浜田知明などなど近代および現代絵画を飾る画家たちの名前は枚挙のいとまがないほどです。
 おおよそ70年という時間の経過により、それらのアトリエ村は一般住宅やマンションに建て替えられておりますが、それでもそこには往年の面影を感じさせる家があり、路地があり、数軒のアトリエがあります。
 資料館で知識を補充しながら、「池袋モンパルナス」の地霊を感じに行きたいと思います。自由参加で入場料などの費用は自前、台風の影響も危惧されますが、以下の要領でツアーを開催しますので、参加を希望なさるかたはメールで連絡先(携帯やメール)を明示してお申し込み下さい。
 また、mixiのE.G.P.P.100イベント欄や、コメントでもOKです。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 日時:2008年9月21日(日)13:00 池袋西口「東京芸術劇場」エスカレーター前(池袋ウエストゲート・パーク内)集合
 コース案:郷土資料館→江戸川乱歩邸→さくらが丘パルテノン→熊谷守一美術館→つつじが丘アトリエ村→アトリエ村資料館→交流会(?)
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 全行程ゆっくり歩いて2時間くらいと思います。ウロ覚えなので探しながら行きますのでよろしく!

 ※参加を表明なさった方には、メールなどの手段で当日までにボクの携帯番号等をお教えします。なお、雨天、台風(笑)決行することを前提とします(アトリエ村資料館は土日しか開いていないため)。

2008.03.13

置き忘れられたモニュメント

Kabukicho_2 その街を行き交う人は、まったく意に介さないか、見過ごして通り過ぎてしまい、そんなモニュメントが建っているのさえ知らないのだろうが、新宿歌舞伎町のコマへ向かう通りにそのレリーフのモニュメントはある。そこへゆくとボクは、周りの喧噪も派手な看板も、すっかり変わってしまった街の佇まいも忘れて60年代半ばのその時へタイムスリップすることが出来る。

 ボクは、この空を見上げるような女性像に惚れていた。そのモニュメントはその頃、ボクが毎日のように通っていた新宿ビートニクスのとりわけワルばかりが集っていた『ジャズ・ヴィレッジ』のすぐそばにあった。フーテン明けの夜が白々と明け染めた新宿の朝に、いやでも目についたし、なんだか、その母さんのように逞しげな肩や、胸元に郷愁さえ感じてしまい、家出をした先の母の面影さえ感じてしまうのだった。

 このレリーフ像には、2面あって反対側から見るレリーフは、これまたどうした訳か母の面影と言うよりは、長い髪を垂らした少女像のようにも見えるのであった。
 無雑作に積み上げられたレンガ石の上に、そのレリーフはあってその礎石から何からが、そこだけ40年以上の年月をそのままにまるで新宿と言う世界遺産「不夜城」の遺跡の上に奇跡的に残ったモニュメントのようで、ボクは幼い頃にボクが生まれた街である長崎で見た浦上天主堂の「被爆のマリア像」を連想させたりもしていたのかもしれない。

 先日、高円寺からの帰りにそこに立ち寄ったボクは、その像の礎石をなでてきた。すると、イメージはフラッシュバックし靖国通りには都電が走り、パンタグラフからフラッシュするアークが見え、歌舞伎町はジャズとR&Bの音楽で満たされ、角の銀行前ではポンが似顔絵描きをやっており、歌舞伎町公園の方から歩いてくる懐かしい仲間たちが見えたように思えたものだった。

 歌舞伎町には「スカラ座」がつたをからませた古色蒼然とした佇まいで建っており、「ポニー」があり、「ニューポニー」「木馬」「ヴィレッジ・ヴァンガード」「ヴィレッジ・ゲート」などのダンモの店、「王城」もその本来の名曲喫茶で経営し「カチューシャ」もロシア料理の歌声喫茶として開いている。
 そんな懐かしい幻影が見えたように思えたのだ。

 ああ、懐かしき青春。ボクのフーテン時代よ!

2008.03.12

置き忘れられたモニュメント(photo_1)

Kabukicho_1

2008.03.08

子守唄に抱かれて……/松永伍一さんを悼む

 5日の新聞だったと思うが、ある詩人にして評論家のささやかな訃報記事が掲載されていた。
 松永伍一さん、詩人、作家、評論家。心不全のため3月3日死去。享年77歳。
 文壇や詩壇には所属せず、孤高の道をつらぬいた詩人だから、知っている人は多くはないかも知れない。この方は、その書くものがどこか土俗の匂いや、その郷土である九州の風が吹いていた。
 そして、やはり詩壇というものに縁のないボクが珍しく実際に会ったことのある詩人なのである。それも、それをとりもってくれたのが死んでしまったボクの母(そう、樹木となって千葉の天徳寺に眠る母)なのである。

 30年ほど昔になるが、当時まだ西武新宿線のS駅にほど近いアパートでひとり暮らししていた母が、ある日、松永伍一さんが近所に住んでいるから会ってみるか? と聞いてきたのである。一時は、そのおなじ駅の違うアパートに住んでいたこともあるボクは吃驚してしまった。松永伍一さんって、そんなにも近くに住んでいたのか、と。
 それで、母に紹介の労をとってもらったのだが、松永伍一さんは当時40代後半。まだ頭髪も黒く若々しく印象的な優しい目をしてらした。
 実のところ、何を話したのかよく覚えていないのだが、ボクは、松永伍一さんを長く農民詩人だという印象でとらえており、当時のボクは農業に多大な関心を持っていた頃なので、農業と詩人であることといったようなテーマを宮沢賢治などをひきあいに出しながら喋ったのではないかと推測する(自分の日記から、その記述を探し出してみる余裕もなかった)。

 とはいえ、そんなにもたくさんの著作を読んでいる訳ではない。印象に残っているのは、『荘厳なる詩祭』、『底辺の美学』や、天正少年使節のことを書いた『天正の虹』だろうか。しかし、忘れがたいのは『日本の子守唄』や『一揆論』といった本である。生涯を通じて150冊近くの本を書いた。
 『日本の子守唄』は、最近「日本子守唄協会」というNPOまでつくられ、子守唄が見直される風潮の中で(松永さんはその協会の名誉理事にまつりあげられたようだ)先駆的な研究書となった。ボクは、個人的には九州というみずからの郷土を掘り下げていったら「子守唄」という捨てられた棄民の唄に出会ったということだろうし、それにおそらくは松永さんと同郷の北原白秋の試みにちなんだのではなかったのかとにらんでいる。

 松永伍一さんは、谷川雁が「サークル村」づくりを北九州の炭坑地帯で「工作」しはじめた頃に、雁の「東京に行くな」という呼び掛けに逆らって上京し、同じ場所で根付いたように住み続け、そしてそこから郷土九州の根を掘り下げていったひとだと思っている(上京したのは1957年)。
 あの優しい小動物のような目は、おそらく土俗の葛藤を克服して獲得したものだったのだろう。
 松永さんは、晩年おつれあいの介護をし、妻を見取ると(05年11月)、自身脳硬塞で倒れたりして病がちだったようである。

 さて、ボクはいぶかしく思うのだが、どうしてボクの母と詩人松永伍一さんとの接点があったのだろうということだ。いま、ボクは確信して思うのだが、それは、ただ一点、ともに九州生れだということだったのだろう。たまたま、近所に住みお隣さんのような関係になった母が、なにやら何になりたいのかよく分からぬ不肖の息子に会わせてみるかとでも思ったのだろう。
 そして、同じく九州生れのボクへ、松永伍一さんはかぎりなく優しかった。それだけは、はっきりと覚えている。

 御冥福をお祈りします。合掌。

2007.06.05

リリカルな晩/ひとり涙を流す

Dohji_1 (閑話休題)
 親切ごかしのことばをかけたために、ひとりのひとを傷つけたといふことを知った。ボクのどこか南国的なテーゲー(てきとう)な性格が、徹底した面倒見ができないくせに、やさしい言葉をかけさせたりする。それは、相手にはボクの無責任さにみえるらしい。
 ボクは、どこか長く東京に住みながら、東京人になじめないと考えてきた。ボクには冷たく感じるほどの他者への無関心さと言へばいいのか、東京人にはそんな(下町には、それとは別次元の江戸っ子的な面倒見の良さがあることは、日暮里にすんでいたボクは良く知っている、その上で言うのだ)徹底した個人主義があると感じてきたもののことだ。

 しかし、けふボクはそんなのは、なんの背景・財力ももたないボクの単なる心情にしか過ぎないことを思ひ知らされた。他者にたいして何もできないのなら、徹底した無関心をよそおった方がいいのだ。
 内実をともなわない親切ごかしの言葉など、なんの足しにもならないどころか相手を傷つけるだけなのだ。

 夕刻から、ひとり飲み続けた。図書館にリクエストした『現代詩手帖』の「中原中也生誕百年」特集を受け取りに行って、なぜ、その号を買わなかったのかいまさらながら悔いている。中村稔の論考など、まさにボクがテーマとしたいものであって、いやになってしまふ。座談会に高橋源一郎が、おもわずうなずきたくなるやうなことを言っていた。
 「若者がふつうに生きていくときに、精神の真空状態が起こって、そういうときに言葉が必要だなと思う。だけど、自分の言葉がない。だれかの言葉をもってきたいというときに(中略)詩人では結局ランボーと中原中也だけになってしまう、そんな気がしました」(座談会「私」を超える抒情)

 ならば、中也よ! このやうな夜、ボクは、あなたのどのやうな詩句を引けばいいと言ふのだろふ?

 酒を飲みながら、森田童子を聞いていたら泣けてきた。森田童子なんて声量もない、たひして驚くようなメロディを書いた訳じゃない。モジャモジャの時にアフロヘアみたいなヘアに端正な顔だちを隠すようにサングラスをかけ続け、ボクでさえ弾けそうな簡単なコードに曲をのせて暗いリリックを歌っていたのだが、いまも、森田童子をかけると何故か泣けてくる。
 森田童子はきっと太宰好きの文学少女だったと思ふのだが、その青臭いリリックがボクを青春のまっただ中に連れ去ってしまふ。決して「甘い」だけではない、「苦さ」も「悔恨」も伴ってしまう青春に……。

「ただ自堕落におぼれてゆく日々に、ひとりここちいい」(森田童子)

「前途茫洋さ、ボーヨー、ボーヨー」(中原中也)

「ああ! 心といふ心の/陶酔する時の来らんことを!」(ランボー/中也訳)

2007.01.10

壁面のアフォリズム(箴言)

Vsl17 8日に見た映画の余韻もあって、今日(9日)一日「フランス5月革命」のことを考えていた。いや、当時ボクがパリにいた訳ではないから(笑)、正確には同時代の日本のボクらに「5月革命」は、どういう影響を与えただろうということを反すうしていたにすぎないが……。

 そう1968年のあの頃、「5月革命」の衝撃は学生運動をになっていた活動家のみか、一般市民、労働者にもインパクトを与えたものだ。まず、デモで左右の人と手をつないで大通り一杯に広がるフランスデモというのがはやった。
 東京の学生街であった神田周辺が、「神田カルチェ・ラタン」と呼ばれた。お茶の水から水道橋あたりの街頭に催涙ガスの匂いがたなびき、はがされた投石用の敷石がゴロゴロ転がっていた。
 現在の学生は知るまいが、郊外(八王子など)に校舎が移転した大学は、マンモス化もあったが、基本的には各大学の自治会、党派の分断を謀ったものだと言うことだ。皇居も眼と鼻の先の神田駿河台近辺に都市ゲリラの根拠地みたいな校舎があっては困ると言う治安維持上の配慮も大きかったろう。「神田カルチェ・ラタン」は治安当局の目の上のタンコブであり、公安を刺激した。今という時間から考えても、この頃まで学生にも、また大学側にもあった学問の自治とか、研究の自立性とかいったものは「幻想」であったという「象牙の塔」(権威)幻想があっけなく崩れ去ってしまう。1970年代以降、大学の研究や学問は自律性を失い企業や、産業の発展の為であると言う「下請け」に堕してしまうのだ。

 それから、これがボクにとっては重要な着目点なのだが、それまでの党派のスロ−ガン的な落書きが、「5月革命」以降、突然哲学的というか、詩的になった。まるで、美しいアフォリズム(箴言)のようなことばが学内、バリケード内の壁に落書きされて行くのだ。

 「5月革命」で、世界的に有名になった落書き(壁面のアフォリズム)には、こんなものがあった。

 「敷石をはがすと そこは砂丘だった」
 「想像力が権力を奪う!」
 「禁止することを禁止する。自由はひとつの禁止から始まる。他者の自由を犯すことの禁止である」
 「異義を申し立てる。だが、まずオマンコすることが先だ」
 「ブルジョワはすべての人間を堕落させる快楽にひたっている」
 「愛すれば愛するほど革命をしたくなり、革命をすればするほど愛したくなる」
 「政治こそは街頭で行われる!」
 「Make LOVE,Not WAR !」
 「自由は与えられるものではない。それは奪取されるのだ」

 などなど。その警句のような、箴言のような壁の落書きは日本にも伝えられ、「文革」真っ盛りの人民中国の壁新聞の存在とともにボクらに、自立した表現、自律したジャーナリズムとは何かを考えさせた。
 それからである。学内、バリケード内そしてジャズ喫茶内の壁と言う壁の落書きが、一挙に哲学的、箴言的なアフォリズムの名言で彩られるようになったのは!

 昨年暮れだったか、「夜露死苦詩集」というタイトルだったと思うが、暴走族やチーマーのキャッチコピーのような「ひと言」を集めた「詩集」(?)が出版された。狙いは良かった。しかし、中世いやポンペイの昔から、実は民衆的な表現や、変革の意志は「落書き」の中にあった。
 その「夜露死苦詩集」にも取り上げられず、無視されたものとはこれらの変革の意志をもった革命的な(笑)「落書き」だった。それは、おそらく世代の落差なのだろうが、残念なことだった。

 とはいえ、ボクはトイレの下卑た欲望丸出しの「落書き」のことを言っているのではない。オマンコやファックすることの言葉がつかわれていたとしても、それは世界を変えるための意思表示として使われている。それこそ、深遠な箴言だった。
 フランスの1968年の5月革命は、ボクらに色々なことを教えてくれたのだ。

 「体制をファックしろ! ダマされるんじゃねぇ!」

2007.01.09

パリ・5月・1968年の失われた革命

Revolt_may パリ・5月・1968年の失われた革命(映画『恋人たちの失われた革命』のこと):
「1968年5月、パリ——。世界を変えられると思っていた。そして、この愛は永遠に続くと信じていた」(映画『恋人たちの失われた革命』のコピー文)

 素晴らしいと賞賛する気持ちと、まったくフランス人は独り合点の映画ばかり作りやがって(笑)! という気分に引き裂かれる映画作品を見に行った。この作品の素晴らしさは3分あまりの予告編の中にある! で、本作を見ると、その上映時間3.時間の冗漫さにイヤになってしまうのだ。
 ボクは、おすすめする! ガーデンプレスにある上映館である東京都写真美術館前の前にあるモニターと、そして公式サイトで、見られる予告編は、素晴らしい! 本当に高揚感に浸される。だが、それで、本作を絶対語ってはいけないと……(笑)! 革命は裏切られたが(「裏切られた革命」はトロッキーのロシア革命の批判の著作名)、映画もたまには裏切ることがあるからだ(笑)。

 しかし、全編モノクロでハレーション気味の映像、舞台に選ばれたのは1968年パリ5月革命のさなか、まるでウォホールのファクトリーのパーティを思わせるような主人公たちが入り浸るブルジョアの一室、ガンジャや阿片が回し飲みされている——眠気と闘いながら見た作品は、夢の中のような印象だが、こうして映画館から出て時間がたってみると、まるで現代に製作されたヌーベル・ヴァーグ作品かと思わせるような出来に思える(制作年代は2005年)。

 実は、監督のフィリップ・ガレルは日本のベビ−ブ−マ−(団塊)世代と同じ1948年生まれでまさしく、フランスの5月革命時に20歳であり、それは主人公の詩人フランソア(監督の実の息子が演じる)と重なる。そのうえ、監督はベルベット・アンダーグランドの歌姫NICOのもと亭主であり、NICO主演の作品を7本撮り、さらにはNICOが死去した時その追悼作品のようなものもつくっているという人物だ(この作品の中にもNICOの曲が使われている)。
 ジャン・リュック・ゴダールを継承する監督と言う評価もあるようだが、監督みずからインタビューに答えて「自分はインディペンディント作家」と言っている。そう、この作品はアングラ映画とおもって見に行くと気分がずっと楽になる(笑)。

 だいたいわかりやすいストリーというものはないに等しい。あるのは、状況だけであり、それもリアルな位安上がりにつくってある(笑)。機動隊と学生たちが対峙するシーンは長尺長回しで、カット割りはほとんどなく同じシーンが長々と撮られている。つまり、この映画作品において「パリ5月革命」は歴史ではない。そこに映し出されているのは、鋪道の石や、木片で築かれたバリケードだし、横倒しにされた自動車である。燃え盛る火に見えかくれする投石する学生たちのすがた。鋪道を駆ける大勢の靴音、爆発音、騒然としながらどこかのんびりとも思える夜の空気、笛の切り裂くような音そんな音、音が効果音というよりリアルな騒乱のひと夜を再現する。歴史は鳥瞰的に語られるが、実は歴史をつくっている現実の人間は地を這うような何が起っているのか俄には分からない目の前の状況しか体験していないのだ。歴史は、そんな個人の体験の集積、集合でなりたっているとも言えそうである。この映画はそういう意味でドキュメンタリーを意識して作られたと思う。

 そう、この感想と言うか、映画評の文章を書き出してからボクは、最初とまったく違う評価を持ってしまった。この『恋人たちの失われた革命』はインディペンデント(アングラ)作品を見に行く気持ちでぜひ見てもらいたい。とりわけ、アングラ映画をみたことがない若い世代におすすめする。
 アングラ映画としてみれば、ガレル監督がなぜ、実の息子に主演させ、その息子の祖父や母(監督の妻)やかっての妻だったNICOの歌声まで総動員してドキュメンタリータッチのこの作品を作り上げたかが、分かってくるはずだ。そこには「5月革命」を含めた「継承」というテーマが隠されているのだろう。
 こんな映画体験はハリウッド娯楽大作しか知らない世代には新鮮なのではないだろうか?

公式サイト『恋人たちの失われた革命』
http://www.bitters.co.jp/kakumei/index.html
写真もここからフライヤー、ポスターの映像を引用しました。宣伝にもなりますので、お許し下さい。なお、ここからおすすめの予告編も見ることが出来ます(但し、windowsユーザーのみのよう)。

2007.01.05

『日めくりタイムトラベル』(NHK/BS2)に出演した!

Jun_ian4_bs2 3日の夜、『日めくりタイムトラベル 昭和42年(1967年)』(NHK/BS2)にボクが登場したのは、番組がはじまって2時間近くたとうという「八月」のパートだった(全3時間の番組)。E.G.P.Pで「風月堂のうた」をリィディングする姿にかぶさって「詩人フーゲツのJUN」というクレジットが入る。
 新宿駅東口の通称「グリーンハウス」から、中央通りを「風月堂」、「汀」、「びざーる」、「DIG」跡地など歌舞伎町を歩き回り、ゴールデン街まで3時間近くカメラがひっついて歩き回ったが、使われたのは「風月堂」前、「ジャズ・ヴィレ」裏の路地(というよりビルのすき間のドブ)などほんの一部のシーンだった。

 それでもなんとナレーションが入る。そしてナレーションを担当しているのは敬愛する大先輩の歌人福島泰樹さんである。ボクにとっては、これが一番うれしかったかもしれない。
 何しろ福島さんの声で「JUNは……」といったナレーションなのである(何と言ってたかは確かな記憶はないのだが……。あとで、ビデオをもらったら確認します。cureaさん!よろしく!)。福島さんとはUPJ3(ウエノ・ポエトリカン・ジャム第3回目)で、挨拶し、言葉を交わした。きっと、ボクのことなど覚えていないだろうが……(福島さんはUPJ3のゲストで、トリをつとめた)。ともかくビート派ではないにせよ、僧侶でもある歌人福島泰樹さんは「バリケード1966年2月」の歌人として敬愛しているのだ(ボクも出発点は短歌だった)。

 この番組で「新宿風月堂」や「フーテン」そして「日本のSUMMER of LOVE」のことがどれだけ伝わったか心もとないが(なにしろ当初「電脳・風月堂」のURLもクレジットで出ると言う話だったが、あとでダメになった)、おおよそ3〜4分のミニドキュメントで、とにもかくにも「1967年(昭和42年)」をテーマとする番組に取り上げられました。

 ボクが話した多くの事(「部族」、「新宿ビート」、「風月堂」そしてフーゲツ族、「新宿風月堂」の歴史、その年のゴーゴー喫茶でのイベント、状況劇場・天井桟敷などのアングラ芝居、「蠍座」などのアングラ映画文化、ダンさん(永島慎二)の思い出などなど)は、すべてカットされ(これだけで、ひとつ番組が作れ殴打とディレクターは言っていた)、提供した貴重な資料もほとんど使われなかったが、まぁ、「フーテン」や「新宿ビート」への偏見や偏向はなかったので、よしとしよう。
 それに、ミニドキュメントのまとめ方には、担当ディレクターが「日本映画学校」の卒業生であるという手腕は発揮されていた。きっと一度は映画制作を志した人なのだ。ソツのないまとめかたはさすがとも言える。

 ただ、番組全体はボクが危惧した通りのタレントによる(タレントというのは「才能」という意味なのに、なんのゲイもないタレントがギャラをもらっているのがハラがたつのだ(笑))、バラエティショーであった。ディレクターが調べ上げてきたことを、台本通りに読み上げていく。ジャンル(おもちゃ、ファッション、芸能、公害などなど)ごとに、それぞれ別のタレントが登場して、プレゼンするかのごとく発表していくという手法で、それぞれのプレゼンターが昭和42年(1967年)をひと言で言い表わす標語を考えると言う進行だった。
 で、結局、1967年を言い表わす言葉として選ばれたのは「繁栄の光と影」というソツのないものだったけれど、これとてボクがHPで書き、また『BURST』のインタビューでも答えたものだから白けてしまった。それを考えるとなんだか、この番組「日めくりタイムトラベル」という番組に結局、全面的にかかわったのではないかという気がしてしまった(ディレクターは『BURST』のボクのインタビューを読んでいると言っていた)。

 次回は、昭和47年(1972年)だそうだ。なぜ、5年とぶのかボクにはよく分からないが、ま、今度は声はかからないでしょう……(笑)。


(写真3)いや、マジにアップには耐えられない顔です。これでも、昔はそれなりにモテたのですが……(笑)。でも、そろそろボクの世代全部が「還暦」ですか……仕方ありませんね。いまさら、モテたいと……実は……思ってます(笑)!
(断っておきますが、ボクは今年、年男ではありませんので……。ムダな抵抗ですが……W)

『日めくりタイムトラベル』(NHK/BS2)に出演した!(phot_2)

Jun_ian4_bs2_2 (写真2)「新宿風月堂」跡地へカメラを案内する60年代新宿案内人(笑)フーゲツのJUN。

2007.01.04

『日めくりタイムトラベル』(NHK/BS2)に出演した!(phot_1)

Jun_ian4_bs2_4 (写真1)新宿中央通りを案内するフーゲツのJUN。

2006.12.24

西郷どんの上野(5)/「聚楽」のメニュー

Saigo_donburi こうして見ると上野には、江戸も明治もがタイムカプセルのように凝縮されているようだ。さらに、大正、昭和のレトロなモダニズムもそこにはある。今日はその話をして、この5回にわたった上野そして西郷どんの話を終わろう。

 かって不忍通りには、府電のちの都電が走っていた。不忍通りを歩くとボクには、チンチン電車が走っていた頃の幻影が見える。護国寺方面から動坂、団子坂下、根津を通って上野へ至る懐かしい路線だ。このチンチン電車に乗って不忍池のほとりを通り、広小路で降りる。
 上野へ来れば、食事はきまって「じゅらく」だった。レストラン「じゅらく」は、下町育ちの者にはなつかしい洋食屋さんであろう。漢字では「聚楽」と書く。
 そして、現在では考えられないことだが、昭和27年に西郷どんの建つ山王台の銅像の下がくりぬかれ「上野百貨店」ができる。ここには現在も1階部分にその名残りがあるが、広小路に戦後闇市を開いていた露店商が収納される。御徒町一帯の闇市はアメヤ横町通称アメ横になる。

 「上野百貨店」のテナントは、入れ代わるがレストラン、ビアホール、映画館(上野セントラル)ができる。その2階部分に「聚楽」の支店である「じゅらくだい(聚楽台)」がある。
 ここは現在ファミレスのルーツとか言われているらしいが、デパートの階上にあったファミリィ・レストランの雰囲気を濃厚に残す洋食屋さんだ。「聚楽」そのものが、大正13年に神田須田町にできた洋食屋「須田町食堂」を前身とするレストランのチェーン店だ(創業84年ということになりますか……)。
 「聚楽台」には、桃山様式といえるのかどうか知らないが手すりのついた座敷の間がある。そのデザインそして飾り付けそのものが上野らしく非常にキッチュである!

 そして、今回、この上野の西郷どんにまつわる話を書くきっかけになったメニューに出会ったのだった。西郷どんの銅像の真下である。ボクは迷うことなく注文した!
 おそらく、ここ「聚楽台」でしか食べることができないし、また日本中でそこ以外にふさわしい場所はないだろうというメニューである。

 その食べ物の名前は、「西郷どん」と言う!

 漢字で書けば、「西郷丼」であろう。写真で分かっていただけるだろうか?
 御飯の上に、豚の角煮、さつま揚げの半身、薩摩イモの天婦羅、薩摩黒豚のそぼろ、薩摩地鶏のゆで卵がトッピングされているという「薩摩(鹿児島)」名物のオンパレードの丼(どんぶり)である!
 いや、これが案外おいしかった。鹿児島ではさつま揚げはアツアツのものを食するが、ま、それはいたしかたないだろう。
 これに、薩摩のイモ焼酎をつけ合わせたら、おそらくここは上野だ、天下をひっくり返すようなことができる気分になれたかもしれない(それは薩摩焼酎の酔いのせいだけだとしても……笑)。

 かくして、ボクは気宇壮大な気分になって、明治時代の上野に思いをはせたという訳なのだった。

(写真4)これが、ここでしか食べられない驚異の「西郷丼」だ(笑)!

(終わり)

2006.12.23

西郷どんの上野(4)/肚(はら)の西郷

Saigo_dozo 上野公園の山王台に西郷隆盛の銅像が建立されたのは、明治31年12月のことである。西南戦争で「朝賊」であった西郷隆盛の名誉が回復され、また西郷が庶民に圧倒的な人気があったためかもしれない。西郷隆盛には「西郷伝説」という民衆のあいだに流布された伝説が根強くある。西郷どんが自刃した時、空を赫色(かくしょく)星がまたたいたとか、死体に首がなかったから生きている、といったたぐいの伝説だが、これらの伝説も西南戦争が、黎明期のこの国のジャーナリズムによって取材され、事細かに報道されていたという事情が大きい。「朝野新聞」や「東京日日新聞」、「郵便報知新聞」などが、従軍記者(福地桜痴など「東京日日新聞」の社主みずから乗り込む)を派遣してその一部始終を記事にし、さらに錦絵になって判官びいきの庶民(最近の日本人には失われた心情ではないのか? 「勝ち組びいき」じゃ、主人に摺り寄るイヌだよ!)のあいだに西郷どんのイメージを植え付けていった。

 上野山王台の銅像は高村光雲の手によるが、実は西郷どんの脇にひかえる犬は作者が別である。なぜ、そういうことになったのか今回は調べ切れなかったが、西郷どんの浴衣姿は実はウサギ狩りの姿で(西郷隆盛は征韓論争で中央官吏(参議)を退いてから、湯治や狩りにいそしんでいた)、それゆえ後藤貞行作の和犬が付け加えられたようである。
 さて、この西郷どんは何をキッとにらみへい倪しているのだろう。実は、その視線の先にはあの皇居、自らが無血開城した江戸城がある。西郷が陣頭指揮して平定した彰義隊の霊を率いて、西郷は皇居を睨みすえている!
 そして、さらにはこの地で行われた上野戦争の新政府側の兵士の霊、さらに戊辰(ぼしん)戦争や西南戦争に倒れた官軍の兵士の霊を合祀する目的ではじまった靖国神社を睨みすえている!

 鹿児島出身の西郷どんの銅像が、背後にひかえさせているのはこの国の夷(えびす)のすむ地、鬼門である艮(うしとら)の方位、東北である。大村益次郎を指揮官とした討幕の官軍は会津、奥羽、越後から函館(箱館)まで遠征する。函館の五稜郭にたてこもって徹底抗戦した榎本武揚(海軍副総裁)もまた、佐幕側では注目すべき時代を超えたビジョンを持っていた。

 そして、この榎本武揚は下谷御徒町で生を受けた上野出身の人物でいわゆる「蝦夷共和国建国」構想を持ち、その長を選挙で選んだ。一時は、明治初期にこの国に二重権力状態(政府がふたつある)が現出していた。新撰組出身の土方歳三も榎本とともに闘いこの地で死んだ(榎本はのち許され明治政府の要職につく)。

 西郷どん自身は、むしろ純粋なまでに天皇絶対親政主義者で、明治新政府がその官僚機構(有司専制)によって明治天皇を利用していると憤慨していたほどだった。西郷は民衆に人気があったほどには、開明な思想の持ち主ではなかった。むしろ「軍神」と崇められたように西郷自身は自らも語ったように「いくさ好き」で、大東亜共栄圏思想の萌芽の思想の持ち主と言われる。西郷どんの魅力はおそらくその剛胆さにあった。「肚(はら)の西郷」(竹崎桜岳)と言われる所以である。

 参考文献:新版「上野のお山を読む」(上野の杜事典)谷根千工房2006
      「西郷隆盛——西南戦争への道」猪飼隆明/岩波新書1992

(つづく/次回完結)

2006.12.22

西郷どんの上野(3)/銭湯で上野の花の噂かな

 先回ふれた「長屋の花見」は、下町の貧しい長屋の住人たちが大家の発案で人並みに花見に行こうというハナシだ。とはいえ、酒もつまみも用意できないから、日頃食べているものを豪勢な花見の重箱料理に見立てて花見を楽しむと言う悲しくもおかしくもある江戸落語である。小さん師匠の十八番だった。じゃ、十七番はなんだっかというと、そんなのは知らねぇ(笑)。
 長屋の住人は、酒のかわりに一升瓶に入った番茶を飲んで酔っぱらい、豪勢な玉子焼きはじつはたくあんで、バリバリと音がし、柔らかいカマボコはその実大根でサクサクと噛みごたえがある。そこを持ち前のやせ我慢でおかしみたっぷりに見立てハナシは進む。
 ボクが日暮里で少年時代を過ごした昭和30年代——そのあたりに住む住人が花見に行く場所は、飛鳥山か上野山だった。そして、この両者ともが、どこか江戸情緒を残した空間だ。
 そして、「長屋の花見」によく似た花見風景は、日常的にあったに違いない。

 思い出しついでに書いておくと、不忍池の弁天様前あたりで、よく口上香具師を見た。それこそガマの油売りを見たことがある。日本刀でつけた傷がたちまち塞いでしまうのなら、ボクの心の傷もふさぐことができそうだった(笑)。
 母子家庭であるボクは、あまり母にかまわれた方ではなかった。それまで、ボクはキャッチボールのように、熊本の母、東京の父そして養育を放棄した父の下から叔母のところへと転々として転校と住居が定まらなかった。結局、東京で町の小さな洋裁屋のお針子をはじめた母のもとへ引き取られ、動坂(千駄木)、林町、谷中初音町と日暮里周辺だけでも文京区、台東区、荒川区にまたぎ、越境しての転居をくり返した。いま、地図のうえでは見つけることの出来ない地名が頭の中にこびりついて離れない。
 そうであるせいか、ボクはハーフサイズ(フィルムが2倍になる)の一眼レフ(と言っても安物の)カメラをもって、よくひとり彷徨い歩いたものである。そして、行き着いた先が上野であることが多かった。あの谷中の墓地や、路地裏や、長屋が無償に好きだったから……。そして、その習い性がボクをアンダーグラウンドな街を彷徨わせ、深夜喫茶に導いたのかも知れなかった。日暮里の『シャルマン』などのジャズ喫茶でモダンジャズの洗礼を受けるまでに、まだ6年程の月日がある。ボクが10歳頃の話である。

 さて、上野は江戸時代には見せ物興行の小屋がたち、そして明治に入って日本で最初のオープンスペースな歴史的建造物を残す公園となってからも、博覧会が次々と開催される帝都のメインのイベント開催地になる。それにともなって精養軒(明治9年)や茶屋が公園内に建てられる。列記してみると、以下のような頻度のにぎわいだ。

 明治10年、14年、23年 内国勧業博覧会
 同 16年 水産大博覧会
 同 40年 東京勧業博覧会
 同 43年 貿易品博覧会
 同 44年 納涼博覧会

 大正元年 拓殖博覧会
 同 2年 明治記念博覧会
 同 3年 東京大正博覧会
 同 4年 家庭博覧会
 同 5年 海事水産博覧会
 同 年  婦人子供博覧会
 同 6年 奠都50年奉祝博覧会
 同 7年 婦人子供博覧会
 同 8年 畜産工芸博覧会
 同 11年 平和記念東京博覧会
 同 14年 畜産工芸博覧会
 同 15年 こども博覧会

 昭和2年、3年 大礼記念国産振興東京博覧会
 同 年   納涼博覧会
 同 3年 御慶事記念婦人子供博覧会
 同 8年 万国婦人子供博覧会
 同 11年 躍進日本大博覧会
(参考文献:新版「上野のお山を読む」(上野の杜事典)谷根千工房2006)

(つづく)

2006.12.20

西郷どんの上野(2)/上野公園は江戸である

 上野公園に「江戸」を感じるのはボクだけではないだろう。ボクには寛永寺のかなたの森に、群居している黒いカラスの寂しげな鳴き声にさえ「江戸」が感じられて仕方がない。子どもの頃からそうだった。
 それは、上野東照宮や、寛永寺、かってこの地にあったという上野大仏や五重塔の存在も大きいが、それだけが原因ではないだろうと思っていた。それで、上野公園の歴史を調べていたら、そのボクの子どもの頃からの「謎」は氷解したのである。

 彰義隊と維新政府軍との「上野戦争」のあと、荒れはてた上野山に陸軍病院建設が計画される。その建設の是非をドイツ人軍医であるボードワンが意見を求められる。ボードワンは視察のあと、むしろこの地は公園にして共有空間として人々に開放し、歴史的建造物を守るほうが良い、という提案をした。この提案によって、ボードワンは上野公園の父とも言うべき存在になった(ボードワンの銅像は噴水の脇に建っている)。

 明治6年3月25日、寛永寺境内を公園用地とした上野公園がオープンし、2年後には不忍池周辺も公園に編入された(大正13年までは「御料地」。以後、下賜され「恩寵公園」となる)。寛文年間から花見の場所として江戸っ子に親しまれていた上野の山に、夏の風物詩である蓮見で有名な不忍池が組み込まれたことで、江戸の「聖なるもの(ハレ)」と「俗なるもの(ケ)」がセットになって保存されたのだ。それも、現在に至るも同じ「花見の賑わい」が繰り広げられる「生きた歴史的空間」としてだ。
 不忍池の大ハスの親水的な風景と、そして徳川家康を祀る東照宮(東照宮は日光、上野、静岡の3ケ所ある)や、歴代将軍の墓の置かれた寛永寺の墓所。

 金も食い物も用意できないが、「見立て」の心意気と勢いで花見を敢行する落語「長屋の花見」の御隠居さんや八つあんや与太郎が息づいた100万都市「江戸」——物質循環という意味では、理想的なエコシティだったという「江戸」の幻影がそこから立ち昇ってくるような気がするのはボクだけだろうか?
(つづく)

2006.12.18

西郷どんの上野(1)/上野戦争

Syogitai_memorial_1 昭和30年代の少年期を日暮里周辺で過ごしたボクには、上野は親しい街だった。だから、一時はデパートといったら「松坂屋」だったし、アメ横にもよく行った。都電に乗っても来たが、谷中墓地を突っ切っての散歩や撮影をかねてもよく歩いた(ボクはカメラも趣味だった)。
 少年時代のボクは、6歳くらいまでしかいなかった生れ故郷である長崎と似た場所を無意識の内に求めており、D坂いや動坂周辺は格好の場所だった。後年、長崎に行った折、長崎の路地や塀に動坂の面影を見てしまったくらいだった(ボクの長崎のイメージは混み入ったリオのファヴェーラのような坂の街である)。

 さて、上野は江戸時代から丑寅の鬼門で、封建時代から明治への変革期つまり江戸から東京の変わり目に重要な役割を果たした。靖国神社(もともとの名は東京招魂社)の制定にも上野の山を主舞台とした「戦争」が大きな役割を果たしている。そう、かって140年ほどむかし上野の山で戦争があった。

 徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還した翌年(1868年)、慶喜は上野寛永寺に謹慎ちっ居した。幕藩支持派は「彰義隊」という名で「最後の将軍様」慶喜の守備警護の名目で上野の山に結集した。最盛期には2〜3千もの武装した「彰義隊」がいたという。京都の新政府にとって江戸無血開城のあとのこの事態は、目の上のタンコブで目に余った。徳川慶喜の処置に関して強硬派と穏健派に分かれていた新政府側は大村益次郎らを東征軍の総指揮官として江戸に派遣する。
 すでに討幕の端緒を開いた薩長連合の戦いの功により陸海軍務掛(総大将に等しい)であった西郷隆盛は薩摩軍をひきいてこの上野山の闘いでももっとも戦いのはげしかった「黒門」(現在も刀傷、砲弾の跡を残して保存されている)の闘いを指揮し薩摩軍はめざましい闘いぶりを示したと言う。
 この「上野戦争」は、一日で決着がつき、上野の山には彰義隊の死屍累々たるありさまだったらしい(戦死205名)。

 さて、この上野戦争や、戊辰(ぼしん)戦争での政府軍の犠牲者の御霊を祀る目的で大村益次郎らの手で作られたのが、靖国神社の前身、招魂神社であった。そして、のちに西南戦争で政府軍に反旗をひるがえし、「朝賊」となってしまう西郷隆盛は、靖国神社には祀られていない。
 彰義隊の墓地および記念碑は、西郷隆盛像の真後ろにあり、つい3年ほど前まで公園内に家が建ち、彰義隊の記念館(資料館)の役割を果たしていた。そのあたりを上野の山の「山王台」と言うのだが、歴史の皮肉のような近さである。
(つづく)

(写真1)「上野彰義隊墓所」。後ろの建物は現在ありません。これは、3年ほど前、資料館閉館の日に写したものです(無断転載不可)。

(参考文献:「上野の山は戦場だった」小川潔など/小川潔さんは、公園内の彰義隊墓所を守り続けた彰義隊の子孫の方です。)

2006.12.15

西郷どんの上野(写真_1)

Saigo_don(写真_1)上野といったら東北地方への玄関口、「嗚呼!上野駅」だし、上野の山(恩寵公園、動物園、寛永寺)だろう。そして、その端で周りをへい倪するかのような西郷どんの銅像だろう。この日も、西郷どんは愛犬をつれて冬だと言うのにうすい浴衣地の着流しでいらっしゃった(笑)!

2006.10.11

ネコ 水を飲む!

Water_cat ネコも水を飲む。当たり前だ。我が家でもネコを二匹飼っているから水を飲む姿は知っている。見なれている。しかし、ノラともなるとこのような野生を感じるポーズで水をお飲みになるのだ(急に敬語になる)。ま、ネコが油をなめていたらすこし恐いが、それは化けネコの話だ。
 野性的でそれはそれは優美なお姿であった。そのような、優美なポーズで池の水を飲んでいる姿に気付いた当初、ボクは池に放たれて飼われている鯉を狙っているのかと思ってしまった。
 しかし、池の鯉はそれこそかぶりついて襲いでもしたら、反対に逆襲されるのではないかと思えるほど当のネコよりもはるかに大きい。鯉の噛む力もあなどれない。もしかしたら、小さなネコなら呑み込んでしまうかも知れない。
 だが、ネコはそれらしい動きは見せなかった。どこか警戒心を解いていないにせよ悠然と池の水をお飲みになっているのだった。水面(みなも)に映った灯りが七色に煌めいている。いつしか、ボクも夢幻の世界にさそいこまれてしまうようだ。そう、直前まで、竹中英太郎の挿し絵の原画や、竹下夢二の音楽デザイン帖を見てきたばかりのボクは違う世界におり、そのためにこのような優美な世界に引きずり込まれたのだろうか?
 それから、ネコが動きはじめる15分あまりをカメラを構えたままボクも、微動だにできなかったのだった。

(文京区弥生美術館庭先にて。なお、弥生美術館で開催中の「竹中英太郎/妖しの挿し絵展」は、2日付けのボクの記事(http://angura.blogzine.jp/fugue/2006/10/post_ba6f.html)を参照してください。また、弥生美術館を訪れのお着物を召したお客様は館の方でお写真を撮って件のお庭がみえる場所に掲示しております。なにか、割り引きとか、景品はないようですが……(笑))

2006.01.29

♪キミと よくこの店に 来たものサ♪

Denen_clasics様々なメディアに紹介されてきているにもかかわらず、さすがに名曲喫茶というものは行く人は少なくまた平日と言うこともあったのか久しぶりに行ったその店には客はボクを含めて二人だけだった。とはいえおかげでまるで時間(とき)の止まったような時間を過ごすことができたのだが、この店もいつまで持つのだろうかと心配になってくる。
中野の「クラシック」は昨年、店を閉めたことは聞いていたが、先日行ってみると店は跡形もなかった。新しい建物が建てられるような気配で、あのくすんだような独特の外観はもう永久に失われてしまったのだった。

さて、その国分寺のクラシック喫茶はたたずまいも何もが昔のままでコーヒーの味さえもが懐かしかった。この店で失われたのは、御主人だけであるかのように、今は時間限定で未亡人が店を守ってらっしゃる。
一時は、近くのムサビ(動物の名前ムササビではなく武蔵野美術大学の略称)の学生などもたむろしていたが、最近ではどうなのだろうか?

「でんえん」は、三つの伝説を持っている。1950年代の終わり、大阪から上京したばかりの劇画家さいとうたかをが国分寺に居を構えたため「でんえん」は、さいとうが中心となっていた「劇画工房」の劇画家仲間たちの溜り場になっていたこと。「でんえん」を舞台にした交流は、そのまま劇画史を語ることになる。
ちなみにさいとうの「台風五郎シリーズ」には、しばしば「田園」という名前で登場したと思う。

昨年お亡くなりになった永島慎二氏が、用もないのに(永島氏は「劇画工房」には所属せず自らの主催のグループを作っていた)この店に出入りし、その目的がこの店でウエイトレスをしていた若き日の夫人であったこと。ここが出会いの場所となったこと。そして、それに近いエピソードが劇画作品で描かれている。

60年代なかばに、近くのアパートに山尾三省氏が住んだためその都市型コミューンのバム(乞食の意味だが、いわば和製ヒッピー「エメラルドのそよ風」族と名乗った)の住人たちが、しばしば「でんえん」に出入りしていたことなどの伝説である。

そしてこの伝説にボク自身は、劇画ファン(ボクは貸本マンガ世代である)としても、永島氏と交流があったという点でも(夫人ともお会いしている)、そして「部族」と名前を変えたバムとも交流があったという点でも、奇妙な接点があると言わねばならないだろう。

ボクはどこへも行くあてがなく、ただ無為な時間を過ごすためだけに食事もがまんして一杯のコーヒーを飲むためだけに名曲喫茶や、ジャズ喫茶に通いつめたことがある。そのような遍歴の果てに、ボクは「新宿風月堂」という稀有なカフェに行き着いたのだった。
それが、「青春」だとでも思っていたわけでもないだろうが、時間だけはたくさんあった。そして、同じような逸話は永島氏の『漫画家残酷物語』の中にたくさん出てくる。
つまり、この作品や当初『COM』(虫プロ商事発行)に連載された『フーテン』という作品の中に描かれた登場人物はもうひとりのボクだと言って良く、ボクは文学青年を標榜するより、漫画家志望の貧乏で暗い少年だった。

ボクは思っている。かって、永島氏のように理想の少女とめぐりあえることを夢みて無為の時間を過ごしたあまたの喫茶店、名曲喫茶に失われた夢、失われた時を求めてふたたび経巡りたいものだと……。
それで、失われたものは取り戻せる訳ではないとしても、自分の青春の確認はできるかも知れないと。そう、それらの店が跡形もなくなる前に……。

(写真2)まわりの風景は変化しても、店の佇まいはまるでタイムスリップしたかのようだ。

2006.01.28

♪キミと よくこの店に 来たものサ♪(写真1)

Coffee_cup_clasics(写真1)コーヒーまでもが、角砂糖ののった昔のままのスタイルで、味からカップまで、懐かしかった。

2006.01.16

神戸へ、そして神戸から

「あの時」から11年目を迎えようとしている。この日の早朝午前5時46分にもまた追悼の灯がともされ、なくなった人々への追悼がなされるだろう。
未曾有の大災害だった阪神淡路大震災から11年目の17日の朝を思う。

震災から1年半ほど経って訪れた長田の現地事務所の周辺は、瓦礫は取り除かれてあったが空き地だらけで、人々は仮設住宅に住み、まだまだ廃墟然とした暮らしの破壊された跡だった。
遅れてきたボランティアとして現地にはいったボクらは、ひとの暮らしの破壊された後へのケアや、訪問、仮設での炊き出し、識字学校の手伝いなどの作業をした。
仮設住宅に住む一人暮らしの人の「孤独死」が、さかんに取りざたされていた。

このボランティア活動と前後して、東京で知り合っていた歌うたいのおーまきとまきとその相棒の野村アキとともに仮設のひとびとを励ますためのコンサートと炊き出しの手伝いに姫路に行ったこと等も懐かしくおもいだすほどの時間が経過してしまった。
アキは当時地域コミュニティ放送局として有名になっていた「FMワイワイ」のディレクターなどもやっていた。そのつながりで、「FMワイワイ」のある鷹取教会にも行った。あのダンボールの筒で出来た礼拝堂にも行った。その両手で火災を止めたと噂されていたキリスト像も見た。焼け残ったキリスト像はそのありがたい信仰に由来するのだろう噂とはうらはらに、奇妙にキッチュな像と印象づけられている。

某NGO団体の現地事務所は学生ボランティアでひしめいており、その中には旅をしている若者もいた。若者らしいバカ騒ぎもあった。

現地事務所が閉所式をやった時にも行った。現在、長野県知事をやっている田中康夫さんが若い女性をひきつれて挨拶に来て、そのツレのあまりにも式典にふさわしくないファッションが異様に目についた。彼がまだクリスタル族の名残りを残したまま勝手連的なボランティアを神戸でやっていたころで(その著作もある)、徹底したミーハーぶりはかれのスタイルだろうとボクは了解したが……。

この旅はつれあいとの新婚ボランティア旅行(笑)でもあり、前年かにインドで落ち合ったボクらが運命的に導かれた行った活動だった。

ああ、いま神戸はどうなっただろうか?
神戸で出会った友は元気だろうか?
神戸は真に復興したのだろうか?

神戸は17日の早朝11年目の朝を迎える。

2006.01.14

暗く底冷えの街/山谷

Sanya_2東日本の最大の寄せ場である山谷へ行った。行かねばならない事情があったから……。だから、これはルポではないし、まして山谷を語るものではない。越冬中の山谷のひと夜を報告する表層の一文である。

いわゆるヤマと呼ばれる「山谷」という地名は地図の上にはない。だが、その日雇い労働者の街、東日本最大の寄せ場「山谷」は、アークヒルズとともに厳然としてこの国の首都東京の中に存在している。一方はIT長者の住む幻影としてのアークヒルズと、その正反対のひと夜のドヤ(宿)もない底辺労働者たちがアオカン(野外宿泊)する街として……。

そこは首都東京の鬼門、丑寅の方向に見合ったためかふたつの悪場所にはさまれ、さらに隅田川という江戸時代から庶民に親しまれた川のエッジのような場所にある。悪場所とは、ひとつは吉原、そして川向こうの玉ノ井の郭街である。

ボクが少年の頃にはこの「川向こう」という言い方にもどこか差別意識を含んだ言い回しで多くのひと(江戸っ子?)は使っていたように思う。
第一、この日光街道もしくは常磐線を敷衍した先には小菅刑務所がある。この風水的な方位の一致はなんなんだろうと考え込んでしまう。

さて、山谷の街は、そのどこか置き忘れられたような時間の止まった佇まいの街並みとともに淋しく、底冷えがした。実際、かなり寒い日だったのだが、最底辺に生きる人々は身を寄せるようにして商店街の路上に布団を敷いて寝ているのである。その中には行倒れとも泥酔して昏睡しているとも区別がつかない状態で正体なく服のまま横たわっているいるひともいる。そのまま、眠り込んだら凍死の危険もある真冬にである。
だが、どちらかというと労働者の数は全体に少ないのではないかと思われた。それはアブレが少なくなったと考えるべきなのか、かっての街にあふれるような労働者の数が少なくなったのは経済の冷え込みとともに街の活況がなくなったせいなのか、それともボクが行った時間のせいなのか?

寄せ場を支援する団体が運営する「遊戯場」なるところも覗いてきた。地下ホールのようなそこには暖を求めて身の回りの荷物だけをもった数十人の男たちが、一斉に同じ方向を見たまま押し黙っている。その視線の先には大型のTVがあった。まるで、ひと昔前の街頭TVが再現されたみたいだった。
簡単な調理用具と炊事場があったが、時間が遅かったためか使用しているひとはいなかった。

キリスト教関係の伝道所があった。「神の愛」を宣べ伝えるために炊き出しや、生活支援をやっている活動のセンター的役割を果たしているのだろう。そして、その建物がどこか崩れていくような昭和初期のキャバレーか、ミルクホールの佇まいを外観に残しているのが不思議だった。

そして、この寒々しさと非現実感はなんなんだろうと考えながら山谷の街を彷徨していると、それは正体のつかめない、もしくはいづこともしれない名付けようもない「夢の中の街」に似ているのかもと思い至った。
だが、実はこの街は繁栄する日本の常に陰画、ネガでありつづけた街なのであった。高度成長期しかり、バブル期しかり……。ゼネコンからみの大規模施設や、高層建築そして公共事業が盛んに事業計画・建設されていた時代に、それを肉体労働、日雇い労働として支え続けた底辺労働者が住んだ街なのだ。

つまり、「夢の中の街」の「夢」とは、この国がGNP成長の過程で見た砂上の楼閣のことで、ひとときの甘い夢を共有できたかもしれない寄せ場の住人の夢をも内包して、その街の凍えるような寒さと暗さは崩壊した夢の陰画を現わしているかのようだったのだ。

ボクは影のような暗い街を影のようにうろつき回ったのだった。

(写真3)キリスト教系の「伝道センター」の建物は、まるで昭和初期のキャバレーか、ミルクホール跡のような佇まいをしていた。

暗く底冷えの街/山谷(phot_2)


Sanya_4_1(写真_2)一泊2,500円の個室3畳間。大阪釜ケ崎のドヤと酷似した部屋だった。しかし、ここはマシな方できれいだった。

2006.01.13

暗く底冷えの街/山谷(phot_1)

Sanya_3(写真1)「寄せ場」山谷。暗く底冷えのする街だった。

2005.10.26

黄昏コラム/阿羅漢さん

freedom_life宮下公園での集会の後、ボクは会ったのだ。そう、昔ならボクらはこういうひとをビートと呼び、旅人と呼んだのではないかと言うひとに。
2005年の今日、かれは単なる家なき浮浪者ホームレスと呼ばれている。
でも、それでもいいではないか。こころも身体も自由なのだから……真の自由人なのだから。

トイレ近くのベンチにぽつんと座って、カップ麺をすすっていた彼はなんだか泰然として見えた。その伸ばしたヒゲも、ビートヒゲみたいでかっこいい。
ボクはその公園に住みついてるひとかと思って集会での騒音を詫びたのだ。
すると、むしろ彼の方が恐縮しているのだ。話してみると声も小さく、いたって気弱に話すのだ。
で、話を聞いてみると最近渋谷に、いや東京に流れてきたということがわかった。彼は、なんと鹿児島から歩いて来たというのだ。
ヒッチハイクでもない、交通手段は金がないために一切使わず、ひたすら徒歩で東京まで来たと言うのだ。

健脚、その自由人ぶり、鹿児島出身(らしい)。ボクがただちにナナオのことを連想したのは当然だろう。
まだまだ、いるのだ。このような自由人が。それに、彼はまだ身なりもさっぱりしてバックもふたつで、きっとそれが彼の全財産なのだろうが、この冬は東京で過ごしてみようと思ってると言った。
バビロンシティの中の野生人だ。バーバリアンはまだまだ棲息しているのだ。

ちなみに、東京の中にまるで仙人のように住みついている自由人がいる。風呂にはもう何年も入らず、髪は伸ばし放し、異臭をはなちながら超然と悠然と生きているひとたちだ。
彼らはこの国の中のサドゥだと思う。いわば、聖者だ。
彼らのことを「アラカンさん」(阿羅漢)と呼んで写真を撮り続けているカメラマンがいるらしい。ボクも何人かの阿羅漢さんを目撃している。
もしかしたら、彼らは精神的には病んでいるひとかと思う程、市民生活には無関心で「おもらい」でもなく、ゴミという都会の中の狩猟採集生活で生命をつなぎながら、超然とマイペースで生きている。まさしく孤高の超然とした姿だ。

宮下公園で遭遇したビートヒゲの彼も(見た目にはまだまだ若そうだった)またそのような阿羅漢さんの予備軍のようにボクには思えた。
これから寒くなります。青カンもきつく厳しくなります。どうか御自愛ください。

2005.10.22

ビザールなりし見せ物小屋(3)

misemono_3どうやら、新たな「ヘビ娘」である美少女はおミネ太夫に仕込まれたようである。そう、おミネ太夫の跡を継ぐ、二代目の「ヘビ娘」が誕生したのだ!
どうして確信をもってそういうことが言えるかと言えば、芸風が同じだったからである。ネタの展開も同じだからである。もっと言えば、同じネタが他にもあったからである(たとえば「河童のミイラ」)。
ただ、おミネさんは巨大な白ヘビとたわむれるのもウリだったが、さすがになつかなかったのか扱いが難しいのか登場しなかった。この白い大蛇は脱皮のたびに大きな抜け殻を残し、そのヘビの皮を財布に入れておくと金が無くなることがない!というので、以前ボクも一部をいただきいまだ財布の中に大事に入れているものなのだ(効果の程は全然なのですが、こころ安らぎます)。

という訳で、ボクはふたまわりほど同じ演目を楽しんでからやっと小屋を後にした。
ボクの確信は感慨もひとしおであった。大寅興業の見せ物は、「人間ポンプ」などの日本独自の見せ物芸が風前のともしびで、あまり体調も良くなかったらしいおミネ太夫の芸を継承する娘が現われたのだ。それも、若干19歳の美少女だ。これは、ますます通わなければならなくなった。

きっと、この二代目誕生のいきさつにはこれは勘だが、「月蝕歌劇団」がからんでいるに違いない。アングラ劇団が滅びかかった日本の見せ物芸を継承するに、ひと役かったに違いない。

今年の「酉の市」の花園神社の見せ物興業に、ボクはこれらの推測と確信をもって自分の直観を確認しに行くだろう。

もちろん、いまからこの日本の見せ物芸観劇ツアーにともに行くひとを募集する!
日本の見せ物芸観劇ツアーのコンダクターはボクで、ボクの解説付き(笑)のツアーになるだろう。

(行きたいひとは、メアドを明らかにしてコメント欄に書き込んでおいて下さい!
11月21日(月)の「二の酉」を考えています。)

(photo_1)少女はやおら片手にもったヘビの頭にガブリと噛み付くと、ヘビの頭を食いちぎった。そして、口中を開いて観客に見せたのだ。

「ビザールなりし見せ物小屋」(3)/「蔵の町を徘徊する」(4)
(おわり)

2005.10.21

ビザールなりし見せ物小屋(2)

misemono_6さて小屋の中に勇気をふるって入って見れば、舞台ではなにやら面妖な扮装をした男が緋の襦袢を着た少女を紹介している。少女は舞台の裏側から上半身だけ出して、おもむろに蝋燭に火をつける。
少女は火のついたたばねた蝋燭から流れる蝋を口の中で受け止め、ついには50本ほどたばねた蝋燭を口中に差し入れて消してしまう。
そして、その美しい姿形を舞台の上にあらわにすると、そこで片手にもったヘビの頭にガブリと噛み付いた。そしてヘビの頭を食いちぎると、口をひらいて口中を観客に見せる。少女こそが「ヘビ娘」だったのだ。「ヘビ娘」は、たいそう美しい少女で、花も恥じらう19歳だという。見上げたものだ。

ボクのかって書いたものを読んでくれている人なら(ボクはつい2年前までは、BBSの中にブログのように日記や記事を書いていた )気付いたと思うが、花園神社に小屋掛けする見せ物小屋を数年に渡り見続けてきた。現在、小屋掛けをする見せ物興業師はふたつしかなく、そしてヘビ女もしくはヘビ娘のネタで興業を続けているのは、言わずと知れた大寅興業さんである。とするとおミネ太夫の跡継ぎだろうか?
3年前この花園神社の見せ物興業は、アングラ少女歌劇団のような芝居を見せる(そしてアイドルなみの女優さんがいることで知られる)「月蝕歌劇団」が、見せ物もどきの芝居として「見せ物」を敢行した。それはそれでアングラで面白かったが、見せ物興業としてはフィクションであってフリーク度で欠けていた。「金返せ!」のレベルだったと思う。
(つづく)
「蔵の町を徘徊する」(3)

(photo_2)少女はたばねた蝋燭に火をつけると、それを口中に差し入れ火を消した。

2005.10.20

ビザールなりし見せ物小屋(1)

何の情報も持たぬまま彷徨いながら、親切な伯母さんや、祭りの粋な着流しの伯父さんたちに聞いて、ボクはその寺に辿り着いた。水子地蔵の碑もあるその寺の境内は、通りの屋台にもましてひしめきあっていた。一杯飲み屋や射的場まで境内の中にはあって、静かな寺の境内がまるでひと夜の歓楽街のおももちである。
そんな境内の一画に、「お化け屋敷」と隣あって目当ての「見せ物小屋」は小屋掛けしておりました。
とみれば、その看板のペイントもどこやら稚拙なアングラ芝居の看板のようであります。というか、その荒々しいタッチはかっての懐かしい貸本マンガの「劇画」風に見えたりもします。その下に書かれた「TVでは放送できない過激ネタ。ヘビを生でたべるおんな」と書いてあります。たしかに看板絵もヘビ娘が描かれており、どうやらこの見せ物のメインイベントであるようです。その時、ボクにはひとつのことが閃いたのです。その瞬間のボクはまるで、瞳を星のように瞬かせた小林少年のようであったでしょうか?
客寄せの口上はこうです。

さぁさ、この篭の中に入ってるものを見せてあげるから、もっと近くにおいで! ホラ、この中には生きたヘビが入っているのさ。さぁ、触らせてあげよう! ホラ、そこのお嬢ちゃん! ここへおいで、ヘビなんか触ったことはないだろう? (「キャ〜〜!」) どうだい、むしろ気持ちいいだろう? さ、小屋の中には、綺麗な顔をしたお姉さんが、このヘビがめっぽう好きときた。悪食のお姉さんが、このヘビを食いちぎって食べちゃうのね。めったに見れるもんじゃ、ないよ!

そして口上のお姉さんは、片手にムンズとつかんだヘビを取り出すと、群集はつられるように前へワ〜ッと集まった。口上のお姉さんの脇の幟(のぼり)には「見せ物地獄」と書いてある。もう、悪夢のような演出が小屋の入り口からプンプンと匂う。
(つづく)「蔵の町を徘徊する(2)」

2005.10.19

ビザールなりし見せ物小屋(Photo3)

misemono_5「TVでは放送できない過激ネタ。ヘビを生でたべるおんな」。今宵の見せ物のメインイベントは「ヘビおんな」ネタであるようです。

2005.10.18

ビザールなりし見せ物小屋(Photo4)

misemono_2客寄せ口上でヘビを取り出すと、観衆がワ〜ッと集まった。のぼりには「見せ物地獄」と書いてあった。

ビザールなりし見せ物小屋(Photo5)

misemono_4「携帯の待ち受け画面」にぴったりと写真撮影をすすめられた河童のミイラ。

2005.10.17

蔵の町を徘徊する(1)

051016kawagoe_3ほんの少し路地をまがれば闇がある——そんな街に数十万のひとびとがひしめいているかのようだった。地の日本酒のポケットサイズを片手に、地図ももたずに彷徨っていると、突然往来の向こうから大きな山車が着物姿の子どもたちや、揃いのハッピ姿の男たちに引かれて出現する。街並も蔵がたちならぶ江戸時代の風情なら、山車も祭りもまるでタイムスリップしたかのような古式あふれるものだったようだ。

酔った眼で山車を見上げ、山車の上で少年や少女たちは、狐やおかめなどの面をつけて神仏に変身して憑依の神楽舞いを舞っている。祭りの高揚感に巻き込まれ、さらに酒の酔いも手伝ってフラフラと、まるで迷路を彷徨うかのように歩き回って、人込みにまぎれる。それは、昼に観光に来た時とは、うって変わった不思議な雰囲気をたたえていた。

夕刻から突然、思い立って川越に行く。15〜16日の両日に開催されている国指定無形文化財の「川越まつり」の真っ最中なのだ。なかでも、とりわけボクのお目当ては「見せ物小屋」である。その観劇報告がネットの中にアップされてあった。ならばとボクも重い腰をあげた訳である。しかし、どこで小屋掛けされているのかもわからぬまま川越に着いたボクは駅前からの異様な盛り上がりに圧倒されてしまった。
そうして、途中でもとめたワンカップを片手に蔵の街並が保存されているあたりを彷徨い歩き、酔いも手伝って夢の中のような奇妙な夜の彷徨をするはめになったのだった。
(つづく)

蔵の町を徘徊する(photo3)

051016kawagoe_1引き手に引かれた山車が突然往来の向こう側からやってくる。

2005.10.13

夕焼け評論/取り忘れられた街

青梅で水浸しとなったテントで、これまた水に濡れた寝袋で寝てしまったせいか、風邪を引きそうな徴候がある。それをどうにかコントロールして耐えている。
ポエトリー・ライブ・パフォーマンスで汗をかいたところを、酒をくらって着替えもしないままに寝、さらに浸水する雨で身体を濡らしてしまった。

撤収の朝、チャイを七輪で温め直し、身体を温める。さらに、幸いにしてまだ熱かったキャンプ場の風呂に飛び込む。というか、半身浴をする。残ったチャイをふるまって、次々に帰ってゆく車を見送り、森を見渡して余韻を楽しんでいた。

二日たって、やっと晴れ、寝袋も洗濯物も干すことができた。入道雲のような雲さえわきたつ、さわやかな一日。近所では、土日体育の日の雨で順延になっていた運動会がやっと開催できたという井戸端会議がなされていた。

懐かしい場所に散歩に行った。有里のライブを開催して、有里たちと出会った頃のあの街の風景はどうなっただろう? と、気になっていたのだった。
中央線にあるその近郊の街は、中央線の高架工事の為、駅は立派になり、駅周辺は変わりつつあったが、懐かしい場所はほぼそのままだった。多摩川べりの競艇場のある駅までつづく小さな郊外電車は、まるで時が止まったかのようにそのままの風景を残していた。おそらく、ここでは変わったのはひとの方なのだ。鄙びた小さな駅とその駅前の商店街。まるで、コンパクトにした下町のようなたたずまいはそのままだった。

その日、一瞬だったが雲が切れ夕焼けが見えたのだった。
ぼくは、ずっとその街になにかを取り忘れてきたかのような思いを打ち消すことができなかった。30代だったぼくが、つげ義春のように生きたいと思っていた街だった。一瞬の夕景の中に、そのぼくが忘れてきたものが浮かび上がったような気がしたが、確かな形にすることなくぼくはすぐさま忘れ去ってしまったのだった。

2005.09.02

温泉探訪/崖の湯のこと

gakenoyu-1
「崖の湯」は牛伏寺断層に大いに関係があるかも知れない。高ボッチ高原をはさんで牛伏寺の反対側に位置し、標高も1,000メートルとほぼ同じ。崖が崩落して、そこから湧き出た湯に傷ついた猿が入浴していて明治時代に発見されたと言う言い伝えがあるらしい。おおよそ120年の歴史をもつ湯治場である。
5〜6軒の温泉宿が軒を並べているが、民芸風、旅館風、本棟造り、モルタル造り、ひなびた湯治場風とそれぞれが特徴をもつ。

開湯の宿と言われているのが、崖の湯の奥にある「山上(やまじょう)旅館」で、ここは湯治場風だが、宿のたたずまいも素敵だ。すぐ隣に小さな祠があって崖の湯で快癒したひとのつえ等が奉納されている。有名な相撲取りもこの宿で傷を癒したとか。入浴のみ500円。

おとなりの「山七(やましち)旅館」は、若山牧水の妻だった喜志子が晩年長期逗留した宿として有名で歌碑などもある。入浴のみ600円。

上にある「山二(やまに)旅館」は、手入れの行き届いたお庭が素敵な宿である。北アルプスがのぞめる展望台がある。家庭的だが大きな犬がいる。宿泊料は周辺の宿の中では格安。入浴のみ500円。

「薬師平ホテル」は民芸風の合掌造りの建物のデザインが美しいが、所詮ホテルである。展望は抜群。入浴のみ700円。

「群上閣」には「観音の湯」という湯殿がある。木造で「本棟造り」で建物が素敵だが、団体客が多くにぎやか。入浴のみ400円。

あと民宿風の旅館が数軒あるらしい。

共通している湯質は:明ばん泉 37〜47度  
効能は:神経痛、リウマチ、胃腸病、婦人病、皮膚病

内湯のみのところが多く、湯温が低いのかガスであたためているところが多いようである。

個人的にはここに、つげ義春が訪れていないらしいことが残念である。つげ風の物語がふつふつと湧いてくる温泉だからである(以前宿泊して以来そう思っていた)。

(今日はまるで、温泉探訪のような記事になってしまった(笑))

2005.08.22

神秘の岬で泳いだ(佐渡情話)

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佐渡の天気の激変ぶりには、最初の日から驚かされた。晴れ間が出たと喜んでいるのもつかの間、雲がわきたちたちどころに激しい雨が降って来る。「まつり」の第1日めは、雨模様で先が思いやられた。第1日めのトリを飾ったJha.K.S.Kがステージから「明日からまつり日和になるみたいだから、みんな楽しんで!」とMCしていたが、安定はしていなかったが、実際その通りとなった(K.S.Kはどこかで天気予報でも聞いたのだろうか?)。

15日、今回ファミリィで「まつり」に参加したボクらは、車で15分ほどの温泉旅館に午後の時間に風呂に入りに行った。風呂場はそんなに大きくはなかったが、なんと入浴客は男ではボクひとりで、浴槽は貸し切りとなり、そしてその風呂場からは佐渡の海が見おろせ、水平線がみえるという抜群のロケーションを味わえたのだ。それが、分かっていれば風呂場にもデジカメを持ち込めたのだが、持っていかなかった。残念なことをした。

まつりの二日目(16日)の午前は、二つ亀海水浴場に泳ぎにいった。浜から100メートルほどの島と言うか、大きな岩島まで砂州がつながっており、その不思議な美しさに息を飲んだ。贅沢にも、その砂州で数時間ボクらは海水浴をした。東京周辺でせいぜい湘南か、千葉あたりの海水浴に行く海にくらべれば、信じられないくらいの透明度をたもった海だった。
この日の、深夜、昨年ほどの鮮やかさはなかったが、満天の星そして天の河を眺めることが出来た。

17日にも出演時間の前に、違う海水浴場に行き、そこでも波は荒かったが、美しい海で泳ぐことができた。
むかし、八重山諸島の西表島に行った時、誰れも人影のない浜辺で泳いだことがあるが、そのような贅沢さに匹敵する美しき海で泳ぐことができた。

海は荒海(あらうみ) 向うは佐渡よ
すずめ啼け啼け もう日はくれた
みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ

暮れりゃ 砂山 汐鳴(しおな)りばかり
すずめちりぢり また風 荒れる
みんなちりぢり もう誰も見えぬ

かえろ かえろよ ぐみ原わけて
すずめさよなら さよならあした
海よさよなら さよならあした

(砂山(すなやま)/作詞者・北原白秋/作曲者 中山晋平)

この童謡の歌い出しのメロディはYAMATOのオリジナル曲の出だしにも使われていた。しかし、この歌は、芭蕉の句と同じ言わば新潟側からの視点で歌われているのだが、索漠とした寂しさを感じるのは2番にある離散の孤独、3番の別離という白秋の歌詞もあるが、中山晋平のメロディの寂しげなマイナー展開が大きい。
それに海辺と言うのは、もともと寂しいものだ。きっと補陀落(ふだらく)かもしれないが、海はあの世につながっているのだ。そのせいか、普通河原にある賽の河原が、佐渡は海辺にある。

幼い頃、長崎から一家離散してディアスポラとなったボクは親戚を頼って、有明海に突き出た半島の先にあるうらさびれた漁村で暮らしたことがある。漁村はボクをそのような幼い頃のトラウマにいざなってしまう。そして漁村はいづこも似ている。
さらには、北前船によって運ばれた九州の「はんや節」が「佐渡おけさ」になったという「おけさ伝承」の事情もあるのか、佐渡の漁村はボクにはどこかで見た親しいもののように思えてしまうのだ。

2005.07.24

『赤色エレジー』はなぜ赤色なのか?(2)

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『赤色エレジー』は、時代を不透明にした林の作品の中では、珍しいほどシリアスに現実を反映した作品である。抽象的な表現ではあるが、そのことははっきり読み取ることができる。
一郎はタップ一本で動画をつけて金を稼ぎ出す渡り鳥のようなフリー(外注)のアニメーターだが、つれそう同棲相手の幸子は弱小プロダクションにせよ組織に属する「労働者」である。幸子は会社の「春闘」なのか「団結」の鉢巻きをうっかりしめたまま部屋に帰ってきたりしている。

このあたりには駆け出しアニメーターとして東映動画に所属していた頃の、記憶が入っているのだろう。それに、その闘いはどちらかというと当時の先鋭な「街頭政治闘争」は反映しておらず、むしろ賃金アップの「物取り闘争」の感が強いものだ。
当時のアニメの会社の労働条件や待遇は、それはヒドイものだった。ほとんどタコ部屋に押し込められたような状態で、「締め切り」に追われて灰皿を山にしてモウモウたる煙草の煙りが立ち篭める中で、インスタントラーメンをすすりながら必死になって作画していた。ほとんで健康とひきかえに命を売っている商売といってもいいくらいだった。

幸子に新しいプロダクションでの引き抜きと、男の影がきざした時、一郎は別れの言葉を口にする。

「別れ/よう」
「あなたは/言えない/人だと思ってた/…………」

『赤色エレジー』は、言い換えると「団結悲歌」と言い換えることができると思う。わたしたちはいくら「こぶしをふりあげよう」と「インターナショナル」をうたって国際連帯を決意しようと、「団結」の鉢巻きをしようと赤旗を掲げようと、一向に「連帯」も「団結」も階級的自覚をももてた訳ではなかった。あの人民中国における若者による「造反有理」や「紅衛兵」が、歴史上の誤謬として処理されているようにわが国においても、マルクスもレーニンも理論武装をはかるものには都合がよかっただろうが、胸にストンとおちるようなこころ揺さぶられる言葉ではなかった(津村喬はそれを「たましいに触れる革命」と呼んだのではあるが……)。いや、それはマルクスやレーニンのせいではなかった。些末な言葉尻で、分派闘争や内ゲバをくり返すその理論上の差異の争いが、ひと一人の生命に匹敵するものだったのかどうか誰にも答えられなかっただろう。

たましいを打つことばを獲得できなかったわたしたちの空しい「連帯表明」は、シュプレヒコールの木霊(こだま)ともならずに日本共産党の50年代、全学連・全共闘の60年代、連合赤軍の70年代として闇に消えていったのだった。
21世紀に生きる今日、わたしたちは連帯を表明することばさえも持ってはいない。肥大化した消費社会の一構成員として一時的な快楽と、欲望のために金を落とす認証された「個」としてのIDカードを持たされているだけではないのか……。

これで、なぜ『赤色エレジー』は「赤」であり、ついでに「エレジー(悲歌)」であるかが、分かってもらえただろうか?

これは、ボクにとっての30年遅れた「林静一論」である。

2005.07.23

『赤色エレジー』はなぜ赤色なのか?(1)

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『赤色エレジー』を『ガロ』に連載した林静一は1967年11月号掲載の『アグマと息子と食えない魂』でマンガ家としてデビューした(林静一22歳)。林はアニメ界の中でもエリートだった東映動画に席をおき、アニメーション・フェスティバルにも意欲的な作品を出品する実験的なアニメーターとして知られていた。林のイラストレーターとしての原点も、マンガ家としてのルーツもこの実験的なアニメ作品にあるだろう。
草月ホールで久里洋二や、ノーマン・マクラレー(カナダ出身のフロッタージュ映像作品を得意とした)のフラッシュするような実験アニメにまじって林のアニメ作品を見たような記憶がある。

とはいえ、林静一は60年代後半の『ガロ』誌を、つげ義春、佐々木マキとともに支えた三人だった。もちろん、勝又進のナンセンスマンガも、楠木勝平も『ガロ』には欠かせなかったが、既成のマンガの概念をひっくり返すようなマンガ作品をみせてくれる訳ではなかった。
この三人の作家に池上僚一を加えて、毎月の月刊『ガロ』の発行をこころ待ちにしていた。なにしろ自分自身がマンガ家志望だったから、マンガの仲間たちと喧々諤々の「マンガ論」を戦わせていた。同時に、ボクらは「革命」をも語っていた。それらの、討論は深夜ジャズ喫茶に持ち込まれたりもしたものだった。そう、そこではこれらの話題にセロニアス・モンクやドルフィや、オーネットや、コルトレーンが加わるのだ。

ちなみに70年代になると『ガロ』ではあらたな三人組が活躍するのだが、それはいまは名前をあげるだけにとどまろう。安部慎一、鈴木翁二、古川益三である。

ところで、アニメーターの一郎とセルのトレスをしている幸子が主人公の『赤色エレジー』の「赤色」とは一体なんなのだろう(『赤色エレジー』は小学館文庫で、現在も読むことが出来ます)。この作品が描かれてから、35年の時が流れているのだが(!)、『赤色エレジー』はなぜ赤色なのかと言う疑問が提出されたことはあったのだろうか?
もし、この設問が初めての事だとしてもボクの出した結論は驚くべきほどのものではない。

実は、林静一には「赤」がからむ作品が8つもある。
1968年6月号の『赤とんぼ』にはじまって、『まっかっかロック』(69.07)『赤地点』(69.08)『赤い鳥小鳥』(69.09)『赤いハンカチ』(69.11)『赤色エレジー』(1970.01〜71.01)これに『桜色の心』(71.08)まで含めると7作品。そしてイラスト画集の『紅犯花』(1970年北冬書房)である。赤は血の色、初潮の色ということもあるだろう。それに、墨汁のスミの色はモノクロ印刷であろうとも、赤い色を感じることが出来る。たいがい血潮の色はマンガでは、スミで表わされてきた。
だが、こと『赤色エレジー』に関しては、『赤とんぼ』からはじまった日本的情念とか少女の生理といった表現とは無縁の作品である。
では、この「赤色」とは何なのか?
(つづく)

2005.07.22

僕は天使ぢゃないよ!

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『僕は天使ぢゃないよ』(1974年日本映画)
1974年製作/1991年劇場公開
監督・製作・主演・音楽:あがた森魚

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つい最近、竹熊健太郎があがた森魚のデビューアルバムである『乙女の儚夢(ロマン)』が好きだったと朝日新聞に書いていた(7月15日付け夕刊「文化・芸能」欄の「大好きだった」)。プレイヤーを弟が買ってもらって、最初に買ったレコードがこれだったと。1976年16歳の時で、72年発売のこのレコードをえらんだ訳は、直前に深夜放送で聞いたあがた森魚の語りとうたがとってもナイーブで印象に残っていたせいだそうだ。

あがた森魚がデビューした『赤色エレジー』もおさめられたこのアルバムのコンセプトは、1974年にあがた自身がメガホンをとった『僕は天使ぢゃないよ』にも、そのままあてはまるだろう。
あがたは無名の頃に、月刊『ガロ』で林静一の『赤色エレジー』(1970年)と運命の出会いをした。大正・昭和ロマン風の物語をそこから読み取り、このマンガの世界をそのまま「うた」「音楽」で表現したいと考えたらしい。
林静一の絵柄は、現代の竹久夢二という高評があるように、CMやカレンダーでは意識的に夢二風のイラストを描いている(たとえば「小梅」ちゃん)。テキスタルデザインから絵画までこなした夢二と、林静一のどこが違うかと言えば、林静一はアニメーター出身だというとこだろうか。だから、あがた森魚がワルツの曲に『赤色エレジー』をしあげた割には、じつは原作『赤色エレジー』の中に流れている曲は、GSであり、演歌だった。
林静一のマンガ作品では抽象化し、ポップにしたところをあがたの映画では、わざわざ具象化してみせたという場面が多々ある。
たとえば、『ガロ』の編集長であり、ワンマン社長だった長井勝一をわざわざひっぱりだして登場させている場面等にあるだろう。セリフまで与えてだ……。

そう、言いそびれそうになったが、映画『僕は天使ぢゃない』はマンガ作品『赤色エレジー』を映画化したものだった。主人公はさち子と一郎。あがた自身がニヤけた一郎を演じる。周りをかためる俳優人は、横尾忠則、岡本喜八、緑魔子、桃井かおりからはじまって泉谷しげる(若い!)、大滝詠一、山本コータロー、友部正人、中川五郎、鈴木慶一などなど懐かしのミュージシャンが出演している。ある一面、70年代の空気を記録したものとなってはいる。この作品がなぜ、1991年までおクラ入りとなっていたのかの事情はボクはよく知らない。

でも、さち子が作った魚フライを涙して噛み締めるラストシーンの青春の口惜しさというものは、痛いほどボクにもわかるのだ。
そう、映画『春のめざめ』のパネルが見下ろす四畳半で、ボクらもひもじさとみじめさに幾度も相手に八つ当たりしては、救いのない堕天使を自覚していたから……。

「でも……明日になれば/朝が来れば……/苦しいことなんか忘れられる/昨日も そう 思った……」
(林静一『赤色エレジー』ラストシーンのセリフ)

ボクらは、天使じゃなかった。ましてや「地獄の天使」でもなく、このみじめな国に生まれたやり場のない怒りと、反抗心ばかりをかかえた天使を落第(失墜)した「堕天使」だったんだ。

2005.07.21

「春のめざめ」に戸惑ったころ

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『春のめざめ』(1963年ギリシャ映画)
YOUNG APHRODITES
監督:ニコラス・コンドゥロス
主演:クレオパトラ・ロータ
(1963年ベルリン映画祭最優秀監督賞・国際評論家連盟賞受賞)

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一瞬びっくりした。自分の住んでいたボロアパートが映し出されたのかと思ったからだ。そして、その映画がつくられた1974年という時期を考えてみれば、やはりその映画のパネルはひとつのブームのように、当時の若い一人暮らしの男たちの殺風景な無聊を、慰めたのかも知れないなと思ったのである。

この映画『ボクは天使ぢゃない』(1974年)自体の内容については、明日ふれることにする。いまは、その映画の部屋の背景というか、部屋にかかげられた映画ポスターがテーマである。

映画の中、一郎と幸子が同棲する四畳半の部屋には、『春のめざめ』(1963年ギリシャ)のポスターが掲げられてあったのだ。その場面自体が懐かしかった。映画は同棲生活がテーマになったもので、その頃ボクも御多分にもれず同棲していたのだ。

そして主人公たちが同棲しているアパートの部屋に、『春のめざめ』のパネルが掲げられていた。
ボクの四畳半の部屋もそうだった。ボクは、その『ボクは天使ぢゃない』を遡ることさらに、10年くらい前の1964年くらいに根津アカデミィで『春のめざめ』を見ていた。

主演のクレオパトラ・ロータのエロスに息詰まる思いをしたものだ。原題を『Young Aphrodites』(直訳:若きアフロディティ)というこの映画は歴史以前の、すなわち神話時代とおぼしき時代を土臭く、埃舞う土壌で描き切ったギリシャ映画で、ボクの映画体験の中でも忘れることが出来ない一作品となっているものだ。
そして、髪をザンギリに切ったボーイシュなクレオパトラ・ロータは貫頭衣のような一枚の布をまとっただけであり、映像からはまだ固い乳房が見えかくれしていたのだ。

もう一度見たい。そして、この映画パネルをもう一度手に入れたい!
クレオパトラ・ロータは、まるであの時代を生きたボクの息吹を、どこにぶつけたらいいのか分からなかった性欲や、情念や、エネルギーそのものの迷走を象徴するようなボクのイコンだったから……。

春のめざめ(photo)

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この資料、長い間探してました。思い出尽きない、そして思春期にめくるめくエロスをおしえてくれた名作です。
(これも根津アカデミィで初見だと記憶してます)

2005.07.16

国境の街は非常事態(タイ南部)

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昨日書いたプロイの出身地であるスラタニーよりさらに南の、マレーシア国境近くでは昨年来、イスラム系武装組織との抗争が続いていたが(これまで死亡810名)、ついに14〜15日にかけ20数件の襲撃および爆弾事件が頻発し、警官2名死亡、市民3名死亡、20人以上が負傷し非常事態宣言が布告された。

タイ南部のヤラー、パッタニ、ナラティワート3県では、学校教師に防弾チョッキをくばったり、短銃を所持させたりしていたが、イスラム系住民の反発をまねき暴力に暴力で対抗するものとの批判もあった。今回の非常事態宣言の布告は、イスラム系住民への融和策から一転して強硬策に転じるもので、開発面でも取り残されたタイ南部の緊張が一気に高まりそうである。

タイからマレーシアへ国境をこえる時、ハジャイ(ハート・ヤイ)の街を通過していく。ハジャイはまさしく国境の街である。そこからそのまま南下する手もあるが(マレー鉄道のルート)、東へ向かいスンガイ・コーロクからコタバルへ行く方法もある。今回、非常事態宣言が布告されたパッタニー、ヤラー、ナラティワートとはまさしくこのルートの上にあり、かってボクはスンガイ・コロークからコタバルへ入った時、通った街々である。
家並みも、高床式の家屋が多いことからもマレーシア系住民が多い、他のタイの街とは少し顔つきも印象も変わって来る。それに、風景が貧相で貧しい。暮らしぶりも、貧しそうだった。
ハジャイがいわば、タイの都会の風情だったから、そのような印象をさらに持ったのかも知れないが……。

イミグレーションしかない街のようだったスンガイ・コロークからマレーシアのコタバルに入ると、その街はかって日本軍がマレー侵攻作戦をすすめる際に、上陸を敢行した浜辺のある海沿いのおだやかな街だった。
(このような事態のところを、お前は脳天気にレディボーイのことを書いているのか!と、釘差される前に自分の関心事として、この地区に発令された非常事態宣言のことを自分の思い出とからめて書きました)

※記事の文中では舌たらずだったかもしれないが、タイ南部は外務省の海外渡航情報では要注意地区に一昨年来なっており、これまで同地区には「戒厳令」が発令されていました。タイからの分離独立をかかげたイスラム系武装集団が活動し、一昨年ジュマ・イスラミーヤ(JI)の最高幹部のひとりハンバリが逮捕され、その奪還も含めて過激化していると思われます。JIの関与はいまのところ証拠があるわけではありません。
今回の非常事態宣言は戒厳令をさらに強化したもので、タクシン首相に夜間外出禁止、集会出版の規制、令状無しでの拘束・家宅捜索、電話の盗聴などの権限を与えるものです。

2005.05.29

「みゆき族」のいた銀座/1964(2)

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「みゆき族」の中心は女性たちである。たしかに男たちは、当時流行しはじめていたVANのIVYファッションを崩し、今風に言えばダサオシャレ気味に着こなしていたが(VANジャケにツンツルテンの細身のズボンやマンボズボン、バミューダパンツを組み合わせた)、女性たちは異様に長いスカートをはいて、大きなリボンベルトを後ろ手にしめ、スカーフを頭にまいてほぼ一見パンパンルック風の崩しのカジュアル・モガファッションだった。

50年代の終わりから、盛り場にはフランスの実存主義スタイルに影響され、さらに「怒れる若者たち」や「ビートニック」の影響をとりまぜた「反抗的」そして「不良」の文化が少しずつ営まれはじめていた。俗に言う「アプレ世代」の中の不良グループだ。「刹那的」で、快楽とスピードを追い求め、向こう見ずで今日と今という時間のみを生き、明日は知らないとウソぶくスタイル。それは、大戦後の空腹と空虚の中に生まれた世界中に共通する若者像であったのだ。
このような「アプリ(アプリゲール)世代」の中の不良グループのお坊ちゃん、お嬢さまの中から(慎太郎取り巻きグループの)「太陽族」や、六本木「野獣族」などが生まれた。

50年代の終わりにのちにヌーヴェルバーグに影響を与えた中平康(「狂った果実」1956、「月曜日のユカ」1964など。この監督の風俗への影響力はとても大きいと考える)や「太陽族」映画が作られ、若者に生き方のスタイルを学ばせた。時に時代は、三井三池炭坑の大闘争を経て、60年安保の騒然としてきた世の中にあった。労働運動は高まっており、歌声喫茶も全盛だった。歌声喫茶は当初、日本共産党系の青年運動(民青)の呼び掛けからはじまって、燎原の火のように、全国に波及し「灯(ともしび)」などによって喫茶店や、酒場で歌われるようになったものだ。
さらに、この頃から東京の風景は一変した。東京オリンピックを射程においた首都高速道路が開通し、東京はハイウェイ都市となる。オリンピックのための突貫工事が、都内中の道路を掘り返し、新宿には駅ビルも完成する。オリンピック関連の施設も次々とモダンなデザインで出現し、戦前の面影を残す街並は容赦もなく壊され、高度成長と言う怪獣が徐々に顔を見せてくる。
がむしゃらに突進するエコノミック・アニマルのスタイルは風景だけでなく、人心も荒廃させていったからだ。そのツケが70年代に公害という形で露呈するまで、がむしゃらな経済成長優先論がはばをきかせ、貧富の差は拡大していく。みんな貧しかった時代からとてつもなく醜い、世界中で嫌悪された日本人像が生まれていくのだ。
「みゆき族」の出現はそのちょうど端境にあった。

「みゆき族」が銀座の一画を占拠した1964年。この年、奇しくも「セックスとカー(自動車)とモード(メンズ・ファッション)」を三大テーマにした『平凡パンチ』が創刊される(創刊号は5月11日付。毎週金曜日発売。50円)。『平凡パンチ』は、若者にライフスタイルを提案した。それが、いいか、悪いかはともかく、当時では、とびっきりのアメリカンそしてヨーロピアンなグッズや、アクセサリーなどをカラフルな写真で見せていった。ヌード写真や、セックスについての記事さらには風俗レポートなど、その後に追従する若者向け週刊誌のスタイルを『平凡パンチ』は作った。そして、そのようなコンテンツ記事を大橋歩のイラストでおシャレに飾った。それは、グーの根もでないほどイカシてた。まるで、ダンモ(モダン・ジャズ)のレコードジャケット(とりわけブルーノート)のようにカッコよく、都会的な若い男の生活スタイルを指南していったのだった。
(写真は中平康「月曜日のユカ」1964。モノクロ。加賀まりこ主演)

2005.05.28

「みゆき族」のいた銀座/1964(1)

VAN_logo「「VAN」を着て銀座に集まる若者を称する「みゆき族」という流行語も生まれた。」(毎日新聞WEBニュース)
「ブレザーやボタンダウンのシャツに白靴下の「アイビールック」は、東京・銀座に集まる「みゆき族」を生み出すなど、その後の若者風俗にも大きな影響を及ぼした。 」(朝日新聞およびasahi.com)

故石津謙介さんの経歴に書かれた上のくだりは、どのような事実誤認なのか?

ボクのほぼ同世代にあたる「みゆき族」は、一企業に仕掛けられるほどヤワな「族」じゃなかった。ただ、彼らはこれは今の若者にも共通することだが、ブランドのロゴやデザインに、異様に敏感で「VAN」の書体の黒と赤のロゴ(真ん中が赤で、チャコールカラーの袋に印刷されていた)をイカス!(カッコいい)と思った連中なのだ。イカシた安手のグッズを、自分たちの存在をアピールする手段に使った。まことに正しい「族」的表現である。

だから、同時にコーヒー豆の麻袋にトロピカルなエキゾシズムを感じてイカスと思い(「麻」製というところに無意識の鋭敏さを感じるのは、現在だからか?)、タダ同然だった麻袋を喫茶店や、コーヒー豆の卸業者にもらいに行った。コーヒ−豆の麻袋に印字されたロゴやデザインに美を見い出した最初の世代であり、これはVANジャケットがIVYリーガーのエンブレムにこだわったのと似て非なるものである。むしろ名門大学のエンブレムよりコーヒー豆の麻袋には、コーヒー・プランテーションや港湾荷役人夫として肉体労働に従事する黒人たちに寄り添うような面がありはしないだろうか?

きっと、このような感性が培われた背景には、ハリー・ベラフォンテが歌った「バナナボート」(日本語カバー:浜村美智子/1957年)や「コヒールンバ」(西田佐知子/1961年)などのカリプソ・ソングのヒットが大きいとボクは見ている。季節は初夏、トロピカルな雰囲気がぴったりだった。競い合うように奇抜な取り合わせを考え、それが翌週には皆の流行となっていた。そして、意味なく、無為をかこつて銀座の「みゆき通り」というストリートにたむろい、麻のズタ袋やフーテンバックを小脇にかかえてたたずみナンパをし、仲間を作っていった。そんな若者たちをマスコミが「みゆき族」と名付けたのだ。
1964年の夏にピークを迎え、その年の秋10月に開催の「東京オリンピック」のために、風紀上好ましくないと言う理由で取り締まられ消えていったアーバン・トライブ=「族」である(64年9月12日に「未成年の非行の温床になる」という予断的な理由で一斉補導が実施される)。
本人も書いていらっしゃるが、石津氏はこの流行は「VAN」が作ったと思い込んだ(「みゆき族」が、ロゴ入り袋なんかを持っていたため勘違いするのも無理はなかったが)銀座商工会議所および築地署に要請されて「IVY集会」なるものを銀座ヤマハホールで開催して「みゆき族」の解散を呼びかけた。これが功を奏したというより季節は晩夏になり若者たちは銀座を去って新宿、六本木などに流れたのである。
(つづく)
※写真は(株)ヴァンヂャケットのロゴであります。参考のため掲示させていただきました。

2005.04.09

花まつりの頃(東京春景色櫻之文章其ノ弐)

budy_hana_3budy_hana_2budy_hana_1子どもの頃、4月8日になると空の一升瓶をかかえて近くの寺へ行った。そこで、ふるまわれている甘茶を目当てにそれを一升瓶に詰めて帰るのだ。
この日が何の日か、知る人も少なくなった。仏教国であったはずのこの国も、クリスマスは祝ってもお釈迦さまの誕生日を祝う風習が失われて久しい。
しかし、ボクのような子どもの頃のそんな風習がなつかしい者にとってこの日は、タイやスリランカや、ラオスやカンボジア、ミャンマー(ビルマ)などの上座部仏教の国とともにブッダが布教した教えによってつながれる日なのだ。ボクにとっては、かって仏教がこの国でも国教であったということよりも、アジアを身近に感じる日でもあるのだ。

(写真は8日にまわった三ケ所のお寺の釈迦牟尼のお姿です。ちなみに、当然「甘茶」のはしご(!)もしてきたのですが、おいしさは1-3-2のお寺でした。)

2005.04.08

花園のサクラ(東京春景色櫻之文章其ノ壱)

keiko_yumehanazono_sakura46日に引き続いて、初夏を思わすほど暑くなり桜は瞬く間に満開の風情となった。すると、昔、よく見に行った新宿花園神社の桜が無性に見たくなった。乞食同然の身なりで、うす汚く垢にまみれていたボクは、春爛漫のひと夜に狂い咲いたかのような桜をそこで見たことがあったのではないだろうか?
仕事もせず、日々を睡眠薬の酩酊の中で過ごしていたボクは、夢ともうつつともつかぬ状態にいたから、確かなことではないのだが、あのアスファルト・ジャングルの中で、ゴミとゴミのような人間の吹きだまりであった新宿の歌舞伎町で、そこだけぽっかりと異空間を作って闇があった。すぐ隣は、現在よりも青線の雰囲気を色濃く残すゴールデン街であり、さらにその向こうには不夜城と化したネオンと嬌声の絶えない歓楽街があるというのに、花園神社はそこだけ古代の闇を残すかのように静寂に包まれていた。

あの時の、あの桜をふたたび見ることができるのか、疑問だが(それは、索漠と荒廃していたボクの胸の中に咲いた桜の木だったのかもしれない)、ボクの足は花園神社へ向かったのである。

いや、数は少ないのだが、花園神社の桜は、それは見事に咲き誇っていた。それに、社殿の緋色にそれはよく似合っていた。夜もまたすくない雪洞の光に照らされて、新宿を見つめてきた桜はそれは見事に映えるのだ。遊女の襦袢姿も、この桜には似合うことだろうと思っていた。実際、そのすぐ隣はそのような苦海であったのだ。

そして、ここには芸能の神様が祀られてある。花園神社の一画にそれはある。その小さな一画にさまざまな奉納物があるのだが、このような石碑も見つけてしまった(写真参照)。これまで、気付かなかった。宇多田ヒカルのお母さんであり、ボクらにとってはひばりさんよりも大事なあの方、藤圭子さんの歌碑であった。「圭子の夢は夜ひらく」(石坂まさを・作詞/曾根幸明・作曲)。もっとも、この歌碑は石坂まさをの作詞作曲家生活30周年を記念して奉納されたものらしく、設置されたのはごく最近のこと(1999年のようだ)で、当時はなかったものであるのだけれど……。
(この歌「夢は夜ひらく」そのものは昭和41年に園まりによって歌われたもののカヴァーだったのだが、藤圭子の「怨み節」風のかすれ声により大ヒットした。それもまた、日本歌謡の中のブルースだったのだ。)

2005.04.03

夢のシネマ(3)覚めてみる夢の系譜

moon_travel誰も指摘しないようだから、ボクが書いておくがカレル・ゼマンの『悪魔の発明』(1958年チェコ)の映像的な面白さは、映画が限りなくジュール・ヴェルヌや、昔の複製印刷技術であるエッチング(銅版画)に、近付けたところにある。カレル・ゼマンはこの作品においては、徹底的にこだわって小道具や、衣裳に縦じま、横縞を使用している(エッチングは線を削っていく手法で、ペン画の逆になる。つまり、「光」を与えてゆく作業なのだ。つまり「映画」と同じである)。
ジュール・ヴェルヌそして、その遠い先祖であったもうひとりのホラ男爵・シラノ・ド・ベルジュラックに、オードというかリスペクトを贈りながら、カレル・ゼマンはエッチング風の画像を畳み掛けることによって、『悪魔の発明』のデーモニズムを表現しようとしたのではなかったのか?
ジュール・ヴェルヌの卓越さは、いわば科学技術の発展へのその予言性にあると言ってもいいくらいだが、実はこの『悪魔の発明』には、『海底二万哩』と同じ、原子力とそれを動力とした潜水艦技術という卓見がある。そして、映画の中ではチャチな爆弾の形をしているのだが、大陸間弾道弾、そして核爆弾への予見性がこの作品にはあろう。

そして、画像的なレトロ・フューチャーなデザイン! 今年に入ってから手作りのボートで、冒険旅行に漕ぎ出したおじさんがいて、その冒険は途中断念されたらしいのだが、その手作りのボートがまさしくヴェルヌのノーチラス号の、もしくはカレル・ゼマンの原子力潜水艦の形を模したようなデザインになっていた。また、それは人民中国の宇宙船「神舟」のレトロ・フューチャーぶりとも共通するものだ。
「懐かしい未来」——そのような形容矛盾が成立するのは、現実の科学技術が追い付いて実現化するまでに、人間の想像力が、夢見る力がはるか100年以上前から、いや月世界旅行を夢見たシラノ・ド・ベルジュラックも含めるなら350年ほど前から連綿と続いてきたことによるのだろう。
これは、現在の先端技術のひとつであるロボットに「レトロ・フューチャー」な思いを感じるのに似ている。そして、ロボットにはチェコの民間伝承であるゴーレム伝説と言うスラヴ、ゲルマン的な深層世界が投影されているのだ(1月に書いた「カレル・チャペックとロボット」の記事を参照して下さい)。

カレル・ゼマンにはもうひとつ、このイメージフォーラムでの「レトロスペクティヴ」でも同時上映された『ほら男爵の冒険』(1961チェコ)という作品がある。この作品は映画製作の初期に作られたジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(1902年)へのオードでもあり、ヴェルヌ、ウェルズそしてシラノ・ド・ベルジュラックへの讃辞でもあるだろう。
この作品はG・ビュルガーの同名作を原作にしているが、もう映画好きにはすぐ見て取れるようにカレル・ゼマンまで含めたリスペクト作品が存在する!
そう、『モンティ・パイソン』(1975)、『バンデットQ』(1981)、『未来世紀ブラジル』(1985)の作品で知られるテリー・ギリアム監督の『バロン』(1989)である。『バロン』は、ほとんどカレル・ゼマンの『ほら男爵の冒険』のリメイクだったんじゃないかと、いまなら言えそうだ。
リュミエール兄弟から始まったシネマの100年の歴史は、先人の成果をリスペクトし、その時代の技術で先人が描いた「夢」や「イマージュ」を、さらにリアルに再現してみせるという歴史という地層を積み重ねるまでに至った。テリー・ギリアムに至っては、ジョルジュ・メリエスの「魔術としての映画」を、CG、SFXの技術を駆使することによって、さらに「覚めてみる夢としての映画」にしていると言えるだろう。

「魔術としての映画」、「覚めてみる夢としての映画」——映画館という暗箱の中でスクリーンに対峙する光と闇の芸術である映画は、自ら夢見た夢を21世紀にまでつないでますます繁盛している!
どうか、脚光を浴び過ぎて一大産業に成り果てた後に、闇に復讐されないように……。星(スター)は闇夜にこそ輝きを増すもの、あまりにもイルミネーションが派手すぎては、自らの姿をも覆い隠しかねないものです。
(写真はジョルジュ・メリエス『月世界旅行』1902年)

2005.04.02

夢のシネマ(2)SFの父ジュール・ヴェルヌ

Jules_Verneカレル・ゼイマンの『悪魔の発明』(1958年チェコ)の何が、小学生のボクをとらえたのか?
この作品は、実写なのだが背景や小道具がアニメのような絵なのだ。それも、エッチング(銅版画)のように多くは横向きに線描されたラインが入っている。その書き割りのような背景の上で、俳優による実に無声映画のような大袈裟な振りでの演技がなされるのだ。CG技術が意のままにできる現在ならまだしも、当時、そのような表現は珍しかった。それに、潜水艦(それは原子力で動くようだ)や、気球とその先端科学技術の発明品のことごとくが、どこかレトロで有機的なデザインをしている!
ジュール・ヴェルヌはSFもしくは空想科学冒険小説の父でもあるが、この国においても明治時代から空想好きな少年たちの心を捉えてきた。実は、2005年の本年はジュール・ヴェルヌの死後100年に当たる(1828年に生まれ、1905年3月24日に死去した)。ジュール・ヴェルヌが流行作家になる経緯には色々あったらしい。ヴェルヌは弁護士になろうとしてなれなかった、一種の落第生でもあった。1863年に友人でもあったナダールが、気球を作り上げたことに刺激されて書いた冒険小説『気球に乗って五週間』(1863年)で、ベストセラー作家になる。今は知らないが、ジュール・ヴェルヌの小説を少年時代に読むことによって、その空想癖を掻き立てられ、満足させられた思い出をもつ人は多いだろう。少なくとも、『地底旅行』(1864年)『月世界旅行』(1865年)『海底二万哩』(1869年)『八十日間世界一周』(1873年)『十五少年漂流記』(1888年)などという作品によって、海底や地底への限りない神秘や、月への憧れを持ち得た世代は、少なくとも明治、大正、昭和と続いた空想科学冒険小説の系譜の中に身をおいているだろう。
(余談だが、ディズニィ・シーなどというテーマパークに全然無関心だったボクは、そこに「ジュール・ヴェルヌ・レストラン」なるものが、あることを最近知って俄然行きたくなっているのだ。ネモ船長のノーチラス号船内でのような豪勢な食事をそこでしてみたい!どうせ、失望するだろうが……?)

そのような事情は、チェコでもたいして変わらなかったらしい。というより、ジュール・ヴェルヌはフランス人であり、むしろヨーロッパ圏の方が親しみも、情報も早かったであろうと推測させる。ところで、チェコには人形劇とともに、人形アニメも本家としての定評があるのは御存知だろう。『悪魔の発明』は、その制作年度の割には、むしろその大袈裟な演技もメイクもが、無声映画、それも表現主義還りしている。そして、いわばこのようなチェコ人形アニメの伝統の中においていい作品なのではないかと思っている。

もうひとつ、ヴェルヌの小説に掲載されたイラストレーションの影響力と言うことにも、触れておきたい。
「図象学」という学問があるのかどうか知らないが、思想が長い時を経て時代のパラダイムを打ち破ってコモンセンスになるように(最近の事例として「エコロジー」を上げておこう)、イラストレーションや、画像がもたらすパラダイムの変換と言う事態があるに違いない。それは、たとえば1960年代の半ばから、認識よりも画像として、つまり人間の内部の(さらに言えば「脳」の)イメージを変革、更新していったものとして「月」そして「地球」のイメージがあると思う。1960年代から考えれば、それらのイメージはまるで雲が晴れて鮮明なイメージに定着したかのようなものである。
1960年代の「月」のイメージは、いまだ明解な地図の描けない裏側のない世界だった。そう、いわば鏡のように二次元的な平面イメージだった。観測船や、アポロの実績と、写真による画像は、「月」と「地球」の認識そしてイメージを決定的に更新した。「地球」は、アポロからの写真によってはじめて衛星である「月」から客観的にとらえられた「惑星」となったのではなかったのか?
(つづく)
※写真はSFの父ジュール・ヴェルヌ(1828〜1905)。

2005.04.01

夢のシネマ(1)根津アカデミー

akuma8連想ゲームのように書き綴ってきたテーマは、少し調べものもでてきたのでちょっと休んで、ずっと書けなかった映画の感想を書こう。1月の下旬だかに渋谷のイメージフォーラムに見に行ったのだが、その映画は子どもの頃に見て、ずっとずっともう一度見たいと切に願ってきた作品だった。その作品にまるで、凱旋ロードショーのようなニギニギさで、上映されているのに驚きながらその願いを叶えたと言う訳なのだった。

子どもの頃、長崎から上京して都内をやや転々としたが、最後に落ち着いた先が千駄木だった(東京都文京区/日暮里—田端周辺だけでも3回引っ越している)。その頃には、もう片親だったからボクは「鍵っ子」のはしりだった。学童保育という制度もまだなかったから、ボクは毎日のように映画を見て、貸し本マンガを借りまくって暮らしていた。小遣いももらっていた記憶もないから、もしかしたら晩飯代を浮かしてその代金に当てていたのかも知れないと思う。「ワタシは…(それはそれは)ミジメな子どもです……」(つげ作品のコバヤシチヨジの真似(笑))。
そう、晩飯も店屋ものをひとりで食べたり、食べにいって済ましていたのだ。母の帰宅はいつも遅かった。ボクは、小学生にして独身生活を謳歌していた……(笑)。間借生活は、狭く貧しかったが、ボクはおかげでものすごく豊かな文化生活を送っていた。あれほど、映画を見まくり、漫画を読みまくり、本を読みまくった生活はなかったと自信をもって言える。

その頃、文京区の不忍通り(まだ都電が走っていた)沿いに3軒ほどの映画館があったが、日本映画は道潅山下の角にあった映画館。そして、一番通ったのが根津にあった名画座『根津アカデミー』だった。

『根津アカデミー』! いまだ、身内が震えてくるのを感じる。感動もあるが、なにしろ映画の上映中、足下をネズミが這い回り、ボクは齧られないように足を椅子の上に乗せていたものだ……。土色をした映画館の外装に、赤い文字で「ACADEMY」と書いてあったことさえ思い出す。そうか、あそこはボクにとってももうひとつの「学士院」——学校だったんだな。

なかなか、本題に辿り着かないが、そのもう一度見たいと願い続けていた映画の名前を明かそう(まだ、数本そう思っている映画があります)。『悪魔の発明』だ。
『悪魔の発明』は、ジュール・ヴェルヌ原作の、チェコの映像作家カレル・ゼマンの1958年の作品だったらしい。この作品の内容よりも、不可思議な映像美は、ボクを長い間魅了しつづけていた。
(画像はイメージフォーラムの『カレル・ゼマン/レトロスペクティヴ』公式サイトより引用)

2005.03.12

長崎ぶらぶら節——NAGASAKI TRIP(拾遺)

saromanianlandscape-2landscape-1これだけ書いてきても、書ききれないことがたくさんある。メモのようなかたちで、書ききれなかったところを拾い上げ長崎トリップをいいかげん閉めよう(なにしろ、わずか5日間の旅をもう1週間にわたって書いている!)。

              1.
中居さんの話では「花月」にはさだまさしさんもたまにお見えになるらしい。で、ボクも少し似てますでしょう?と言ったら、仲居さん、なんと言ったと思います?
「いえ、あなたさまの方が、ずっと男前でいらっしゃいます」だって! 座ぶとん5枚くらいあげたかった。

この「花月」は、お客様は最後に玄関のところで鉦、太鼓で粋に見送られる。きっと芸者遊びの名残りなんだろう。で、ボクは送られただけでなく、そこで「お返し」をしたのだ。きっと、前代未聞、「花月」始まって以来の椿事だったかも知れない!
ボクは愛八姐さんの「長崎ぶらぶら節」を意識して、その鉦・太鼓に合わせて即興のポエトリー・リィディングをしたのだ!
やさしかった中居さんが、きょとんとして青ざめていた!

花月 風月 過激に 満月/月も落とすよ シラノのような/とてつもない オイラのホラで!/ブラリブラリと 丸山あたりで ソラ ホラ 大ぼら 言ってみたもんね!

きっぷはいいよ 切符を買って/ブルートレインで やって来た/寝台のって 眠ったままに/(いづこへ行くと問われれば)オイラは 答える ブラリブラリと そら ホラ あそこ あの世行き!

三日 寝込んで 食べにきた/三日 煮込んだ 豚の角煮/フラリフラリと 病のあとに/ラフティ 身体にいいもんね/ブラリブラリと これまた コラーゲン/脂肪も 死亡! うまく 話も煮詰まった!

長崎 丸山 遊廓あたり そぞろ歩けば 思案橋/ 何を思案の 風俗案内 その名も ツーリスト・インフォメーション!と シャレこんで/ぶらりぶらりと 長崎も 夜の巷は/歌舞音曲の 歌舞伎町?

フーゲツのJUN・作『ネオ・長崎ぶらぶら節』((c)Jun Emori)

ボクは、大笑いをしながら提灯をもった女将さんたちに見送られて上機嫌だった。
探してみたら「花月」に公式ホームページがあった。寛永19年(1642年)創業以来の大変革かもしれない!
雰囲気は味わえます。→http://www.ryoutei-kagetsu.co.jp

              2.
「花月」に行く前に、ボクは小島町の方に昇って行き、なつかしい大楠や、坂や、石段を舐めるように眺めてきた。そして、幼い頃のボクが眺めていた風景を、愛しんできたのだ。それこそ、その長崎湾までなだれ落ちるような風景は、ボクのたましいの原郷なのだ。
かって長崎湾になだれ落ちるように、見えた風景もデパート、ホテルなどの建築群が建ち並び、さすがに海はわずかしか見えなくなっている。
首を左に向ければ、正面の丘の上には、海星高校の校舎と聖堂が見え、そのすぐとなりには活水女子学院の校舎が見える。その下あたりにオランダ坂がある。デジカメのバッテリーが切れ、その風景は今回撮影できなかったが、ボクの目には焼きつけて来た。じつは、小島町などの丘の尾根つたいに行くと、下をあるくより早く着く。それは、幼い頃歩き慣れた道で、ボクは決して忘れなかったどころか、幼い頃から東京に来ても、夢の中で反復して歩いていた「夢の中の街」そして「夢の中の道」でもあるのだ。

              3.
「花月」のあと寺町に墓参に行く折に、偶然見つけたジャズバーに行ってみた。まだ、飲み足りなかったし、もう少し長崎の夜を楽しみたかった。『さろまにあん』という名前の店だった。で、「花月」の帰りですと言ったら、いや、自分も行ったことなくてと言われた。で、このマスター(って一人でやってるんだが)実は長崎でも古参のテナーサックス吹きだと分かった。
『さろまにあん』は、はじめてだったが、ボクはいくつかの長崎のジャズ喫茶を知っている。マスターに教えてもらった地方出版で刊行された『哀愁の街にJAZZが降る』(浅賀俊作・著/オフィス・タック刊)という本を帰り際にメトロ書店でもとめたが、その本を読むと、ボクは3軒ばかり長崎市内のJAZZ喫茶を知っているようだ。
「マイルス」、「JEY」、「けやき」である。しかし、あのちいさな街にこんなにJAZZが流れていたとは知らなかった。その本によれば、なんと48軒も掲載されているではないか!
気になる店名もたくさんあった。たとえば「フラワー・チャイルド」とか。いまも営業しているが代替わりして、昔日の面影はないとか(82年の長崎の水害で地下にあったため水没したらしい)。佐世保の「ダンビ」(ダウン・ビート)にも行ってみたかったなぁ! ここはもう、佐世保のドブ板通りにあったような米兵相手の店だったからだ。
いやいや、おそれいりました。さすがに、進取の気性に富む長崎であります。この街で育っても、充分不良になれたかもしれません(笑)。

2005.03.09

NAGASAKI TRIP——市内編/「花月」巻の三

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このパン生地の大鉢には、甘い白味噌の椀がついてくる。長崎モンは甘いものが好きだ。砂糖が高級品だった時代から長崎は、地理的条件(九州は充分に亜熱帯的だ!?奄美などから甘味ははいってきたのだろう!?)、鎖国の時代に外国人が入れる出島があり、外国貿易があった。
次の小菜は皿もので、みるからに中華風のとろみをつけたもので、たまご、豆腐、ししとう、くわいが入っている。この頃には、エビスビールを飲み干したボクは、ギヤマンのとっくりに入れた冷酒を飲んでいる。


次の中鉢も、これはとみれば器のフタがメロンの形をしている! 可愛い! と、おもわず言ってしまいそうな和風割烹料亭ならとても選びそうにないデザインの器である。そういえば、刺身が盛り合わせてあった皿も高杯(たかつき)だったな。
このメロンの器には、デザートではなくなんと豚の角煮がししとうとつけあわせになって盛り付けられている。三日三晩煮込んで脂身も溶けて、実にやわらかく美味しい。沖縄で言うラフィティだ。この料理がかって、玄米菜食を貫いていたボクを堕落、いや、生きてるうちにおいしいものを食べた方がいいやと転向させてしまった料理なのだ。長崎には、これを饅頭に包んで食べると言う食べ方がある。長崎の町中では、肉マン、餡マンよりこの角煮の饅頭包みのほうが、ポピュラリティがある。じつに、美味しい角煮だった。

いよいよ、後膳の御飯物が出て来る。もうひと品くらい注文して、もっと飲んでいたいがなにしろ当初から予算オーバーのフルコース料理なので、グッとがまんすることにした。
照りのある白い御飯に、お新香がそえられ、椀はなんと中華スープである。
次にデザート。江戸時代からデザートがあった訳でもないだろうが、枇杷、西瓜くらいは出たかも知れない。こんどは本物のメロン、金柑、苺、アイスクリームで、ケーキ屋さんで使う白いクリーム状の砂糖が散らされてある。
そしてラストの梅椀は、ほれここでも甘いもの。汁粉で締めるのである。

一、お鰭(吸い物)
二、小菜(刺身四種盛り付け)
三、小菜(鯨肉、ベーコン)
四、小菜(前菜1)
五、小菜(前菜2)
六、小菜(豆蜜煮)
七、味噌椀(白味噌汁)
八、大菜(大鉢/パン生地包み)
九、小菜(中華風煮付け)
十、中菜(中鉢/豚角煮)
十一、椀(中華スープ)
十二、御飯
十三、小菜(漬け物)
十四、小菜(デザート/果物)
十五、梅椀(御汁粉)

さ、以上が「花月」しっぽく料理のフルコースでありました。まとめてみるとこのような流れになります。
所要時間、実に2時間30分。ゆったりとした明治、大正いや昭和初期の時間のたゆといの中で、ゆっくりと料理を堪能させていただきました。
しっぽくとは、漢字で書くと「卓袱」と書き、つまり(丸)テーブル自体の意味になります。日本では膳にひとりひとりが付く個食スタイルが伝統的だったのですが、長崎の人々は唐人や西洋人の食事スタイル——全員で大きなテーブルについて食事するというスタイルをいちはやく取り入れ、それがチャンポンな無国籍料理しっぽく料理を生んだようです。「花月」さんの方でもそのルーツをきちんと掴んではいないようでした。しかしながら、そこは新し物好き、進取の気性に富んだ長崎モンは、すぐに新しいスタイルにとびつき自家薬籠中のものにするのは得意でありました。きっとサル真似の国民性は長崎から全国に波及したものでありましょう(なんだか、こんなことを書くとお叱りの声があがりそうだな)。
しかし、南蛮絵や日本の医術や博物学の基礎は長崎で培われたもので、西洋の先進物、テクノロジー、知識にいちはやく触れ得る特異な場所であったのは確かでしょう。チャンポンも、しっぽくももともとは海外に目が向いていた長崎だから生まれたもののような気がします。わが、郷土を誇りましょうぞ!
(「花月」編おわり)

2005.03.08

NAGASAKI TRIP——市内編/「花月」巻の二

course_2course_1「花月」のもてなしには、独特のルールというか作法があったらしい。それが、この最初の女将のあいさつで、女将は客が最初の「吸い物」である「お鰭(ひれ)」を飲み干すのを確認して次の料理をすすめるらしい。あとは、かた苦しいルールはなく、自由に食べていい。
しかし、この女将の挨拶までおあずけというルールは、この料亭の格の高さを表わすものだろう。もてなす女将は、ここの女主人(「おかっつぁま」と言うらしい。つまり「おかぁさま」だ)であり、そのもてなしの心にそぐわないものは、どんなに高い地位のもであっても受け入れませんよという決意表明なのだ。だから、時の総理大臣にしても失礼のないようにではなく、おあずけをくわされるのだ。

やってきた女将は、自分でも言っていたが恰幅のいい、ボクなんかよりははるかに存在感のある女性だ。でも、さすがになかなかの美人である。おそらく、ボクとたいして年齢は変わらないと思われる女将だった。しかし、この女将は創業以来363年の老舗の暖簾を守ってらっしゃるのだ。ボクは感服するしかなかった。「花月」の伝統にくらべればボクには、守るものなどないに等しいからだ。「花月」には、徳川、明治、大正、昭和そして平成という「歴史」が刻まれているからだ。

中居さんも言っていたが、「しっぽく料理」は訳の分からない料理なんだそうだ。いわば、和風でもあって日本料理ではなく、中華もあってそれだけでなく、西洋料理のものも出てくる。いわば、今風に言えば「無国籍料理」ということになろう。しかし、その見事なるチャンプルー(チャンポン)ぶりには舌を巻いた。「名亭「花月」しっぽく料理フルコース」お一人様バージョンを紹介させていただく。

最初の吸い物は、鯛の胸鰭(ゆえにお鰭 )が、入っており、これは一尾の鯛からひとつしかとれないもので、つまりこの最初の「お鰭」は鯛一尾があなたのために捧げられましたよ、というアピールである。のっけから、ドーンととてつもない贅(ぜい)を感じるものなのだ。
これだけで、空腹だったお腹が適当におさまったから不思議だった。しかし、最初から美味しすぎる。コースはこれから始まるのだ。

本当は、「お鰭」を飲み干すまでビールも飲んではいけないらしいのだが、女将を前に思い出話しなどのひとくさりと喋り過ぎたボクは、すっかり喉が渇いてしまっていた。
女将に「そんなに、小さい頃にお爺ぃさまといらっしゃったなんて、「お坊ちゃま」でしたのね」と、言われてボクは感に堪えなかった。
ボクは、「お坊ちゃま」だったのだろうか?
祖父一代で築いた分限者の家を、これまた一代で潰した父もたいしたものだ。さぞや、楽しく遊んだことだろう。息子(ボクである)には、一銭の金も残すことなく、きれいさっぱり使って、宵越しの金は持たないと粋がってみせる江戸っ子以上に、快楽主義のエピキュリアンであることを誇る長崎モンらしい使いっぷりだった。一家を没落させた上に、暮らしに困って叔母の家にたびたび金の無心に現れ、叔母の家に一時ひきとられていたボクの立場を悪くした(ボクは増田さんから隠れるように、女中部屋で小さくなっていたことを思い出す)。

女将は下がり、おそらくこのあたりから芸妓が登場し、お酌をしてくれるタイミングなのだろうが、それはボクの浅はかな妄想である。しかし、あとで分かったが、現在も芸妓さんは呼べるらしい。もっとも、温泉地で宴会に呼ばれるコンパニオンのたぐいではあるまいと思うが、丸山芸者という方には、お目にかかりたかったなぁと、これもまた妄想した。映画「長崎ぶらぶら節」で、愛八姐さんを演じた吉永小百合さんを、イメージしてしまうが、これもまた相当な妄想だろう。

刺身(4種の魚)をつまみ、小鉢(鯨、ベーコン、筍の煮付け、海老、豚肉)、黒豆の蜜煮を食べ、ビールを手酌していると摩訶不思議な料理が運ばれてきた。大鉢ということだったが、これは限りなくロシア料理に似ていないだろうか? 鉢の上をパン生地がメッシュになって網状に乗り、中はこれはスープというより煮っ転がしのような鉢物だ。これは、当然、パン生地をおとして食べるものだろう。
(「花月・編」3に続きます)

2005.03.07

NAGASAKI TRIP——市内編/「花月」巻の一

reserve_seatkagetsu_front祖父が贔屓にしていたらしい「花月」にやっと入れた。長じて、それこそ祖父の年齢に近付いてやっと自前の金で入ることが出来たのだ。観光客にとっても敷居が高いかも知れない料亭だ。それこそ、幾度も長崎に帰ってきた時に、この丸山公園のところまで来ながら(というより、ここを昇って行くとボクが生まれたところへ出る)入る決心がつかなかった(あとで、触れるだろうが長崎に在住していても、ここに縁のない人は当然たくさんいる)。祖父から聞かされた話や、連れてこられたらしいと言う記憶がなければ、ボクとて決して縁ができるたぐいの人種ではない。

前にも書いたが、台湾が50年におよぶ日本の植民地支配下にあった頃、祖父を家長として我が家は台湾・屏東に家を構えていた。祖父は製糖関連の株と投機でひと山当ててそれは、羽振りがよかったらしい。長男だった父は、毎日新聞社台湾支局の従軍記者をし、ミンダナオかどこかで被弾して、左首筋を流れ弾が貫通し、九死に一命を得て台湾に戻ってきていた。台湾で銃後の高女(高等女子学校)の座談会が毎日新聞社の肝煎りで企画され、それに出席した屏東高女の女子学生だった母と知り合った。結婚式は神前で、写真が残っているが「台湾神社」という大日本帝国(以下、日帝)の宗教的支配のシンボルのような場所で挙げられている。
父の妹(先に触れたボクの叔母である。もっともこの二人も腹違いであった)は、楚々とした女子学生だったころ台湾で、肉弾特攻艇「震洋」の乗り組員として待機したまま終戦を迎えた増田という青年に、見初められる。青年は祖父の前に両手をついて、娘さんを嫁に下さいと頼み込みに来たのだそうだ。祖父は青年将校らしい真摯な態度に首を縦にふったらしい。長崎に一家を上げて引き上げてきたのち、叔母と増田青年は終戦後に結婚をし、この青年は戦後グラフィックデザイナー界を先導する存在となる。もっとも、それは60年代の終わりの変革の季節に、批判の的となる「日宣美」の立場で矢面にも立たされるらしいが……。

さて、その祖父が引き上げてきたのちもヤマ師的才能で長崎でも名士の一人だったらしいことは、すでに書いた。ボクも、記憶の片隅にあるが当時の銀行や証券会社や役所は、明治・大正の名残りを残す重厚な石造りの建築物で、冷たく、暗かったが、まるでどこか世界遺産の遺跡のような重々しさを持っていた。銀座の「交絢社」の雰囲気である。大理石をふんだんに使った建築物だったのだろう。

その祖父に聞いて子どもこころにも覚えていたのだろう。料亭「花月」には当時、長崎逗留中の坂本竜馬が斬りつけた刀傷があるということを、ずっと覚えていた。これも、どうしても見たかった。ボクの頭の中には幼い頃につくられたイメージがあったからだ。

さて、やや緊張しながら(笑)門前のぼんぼりの灯りの点った門をくぐって「花月」にお邪魔した。
中居さんに中へ通されると、ボクひとりのために部屋が用意され、席が設けられていた。ボクは、その格式ある日本庭園や、部屋の作りを見て、自分があまりにも不粋な格好で来店したことを詫びた。といっても、他にはどのような格好も出来なかったのだが……。
部屋はガンガンストーブが焚かれ、暑いくらいだった。ボクひとりのためにと、どうも省エネ気分がでてしまい。もてなしが片腹痛い気分だ。
飲み物は何にいたしますか?と、聞かれたのでエビスビールはありますか?と問う。もちろん、置いてあった。たちどころに、宴は用意され、刺身と前菜がテーブルに並んだ。その料理の並ぶテーブルも円卓である。やや、あの丸い中華テーブルを連想させた。朝飯も昼飯も抜きで、この宴席に臨んだボクは、すぐハシをつけようと思った。ところが、いま「お鰭(ひれ)」が来て、女将さんがあいさつにお見えになりますから、お待ち下さいねと中居さんに「待て!」の命令が下された。それが、長崎流のもてなしだと言う。ボクは、訓練中の犬の気分がよく分かった。「待て!」
旨いものを目の前に、おあずけをくわされているようだった。お腹がキュッ〜と情けなく鳴った……。
(「花月・編」もつづきます!)

2005.03.06

NAGASAKI TRIP——市内編<b>

meganebashisianbashi27日。ゆっくり過ごせるのは、この日一日しかない。とはいえ、この旅の名目である、墓参りには行かねばならないだろう。起床してシャワーを浴びると、思案橋へ出る。ここが思案の思案橋だ。右へ行くか、左をえらぶか。迷いの橋だ、思案橋。江戸の昔から、男たちは迷ってきた。異人さんもまた……。
菊の花と、線香を市内で買って寺町へ歩いて行く。とはいえ、思案橋の電停から鍛冶屋町通りを「銀嶺」方向へ、そのまままっすぐ歩くと寺町に入る。
いつも思うのだが、長崎のロケーションは興味深いとともに、面白い。思案橋を右手に行けば、江戸の頃からの三大花街遊廓のひとつ丸山(「花月」がある)で、左を行けばアーケイドを抜けてそのまま寺町と言う死者の街へ続いている。思案橋を基点にして、寺町が北東(東北)、丸山が南東、出島が真西、さらに言えばグラバー邸などのかっての外国人居留地が南西にあたる。この方向には、もう少し近いが唐人屋敷や現在の新地(中華街)もあるから、風水的な意味があったのではなかろうか(ちなみに寺町方向は風水的には「鬼門」である)?
寺町通りと平行して中島川が流れ、そこに有名な眼鏡橋を含む石橋群がある。そのあいだが、現在の繁華街で観光通り、中通りとデパートもひしめくアーケイド街だ。
中島川にかかる13の石橋は、だからかってはあの世(彼岸)とこの世(此岸)をむすぶ橋。橋渡しをする門前の役割を果たしているのだろう。中島川の彼方には原爆の落とされた浦上地区とをへだてる金比羅山が見える。
寺町には崇福寺とならぶ唐寺興福寺があるが、そのすぐ隣が祖父も祖母も父も眠る墓所がある寺だ。坂の中腹に墓所はあるからここからの階段はちと心臓破りなのだ。除草はしてあっても、守るものもいない墓所はさすがに苔むして、掃除が大変だった。ま、何年かに一回も来れていないのだからそれくらいは致し方ないだろう。先日、東京に独り暮らしとなった叔母と久しぶりに会った時、言われたひと言が頭の中を駆け巡る。
叔母は、ボクを見るなり「まぁ、ジィちゃんにそっくりになって!」と、言ったのである!
ボクが7歳くらいの時に亡くなった祖父に、年齢的には近付いてきているのはまぎれもない事実だが……。このひと言はショックだった。この祖父にボクはたいそう可愛がられて色々なところに連れ歩かされた(誰も信じてくれないが、ボクは幼少の頃、とても可愛いかったのだ)。それこそ、花街の真ん中にある割烹「花月」に、最初に行ったのもその頃で、祖父はその意味でも進取の気性に富むひとだったのであろう。孫を連れて花街の真ん中にある割烹料亭に行くなどと言うことは、ボクでもできないだろうし、教育上とても素晴らしい(!)。あとで、わかるがその当時の「花月」さんは、必ず芸妓を上げていたというからボクも芸者さんに囲まれたことがあるのだ。
だから、今回の墓参はなんだか、祖父と対話することになってしまった。いや、ボクの記憶の中にある長崎は、抜けるような夏空と、けだるいような空気、まだ戦争の名残りの廃墟があちこちにあったから、そのような記憶をさぐる旅になってしまったのだ。それに、その祖父の生きていた頃が、ボクにとっても生涯最高のリッチで幸福な時期だったから、長崎の華やかなまつり(おくんち、蛇(竜)おどり、ハタ(凧)あげ、ペーロン競争などなど)の記憶とともに、忘れられないものになっている(その頃の、おやつといえば砂糖黍だったことを思い出した)。

墓参の汚れを落とすため一旦、ホテルへシャワーを浴びに帰る。その途中、眼鏡橋などの石橋を見てきたことは言うまでもない。
さて、この日、ボクは何も食べていない。実は、一大決心で「花月」に予約の電話を入れたのだ。本来、お二人様からでお一人様は駄目らしいのだが、受け入れてもらえた。だから、かってはリッチだったかもしれないが、いまはプワーなボクは貧乏性を発揮して飯を抜いたのだ。なぜって、そこでのフルコースの料理はボクの半月分の食費に相当するのだ。こういうところがボクが祖父を乗り越えることができない点だろうが、ある意味投資家としての才能を発揮した祖父とは、生き方も考え方も正反対できっとあいいれることはできなかったろう。
次回からは、歴史ある史跡料亭「花月」のしっぽく料理フルコースを紹介する。

2005.03.05

横須賀演歌ストーリー

momoe_manjyuきょうはイベントもあり(PAを貸すのと、定例イベントのふたつ。同じ会場のSCUM2000)、昼から出かけるのでブログは休むつもりだった。
そこで、トーストを食べながら新聞を読んでいると別刷りの「ことばの旅人」が、横須賀を取り上げていた。ことばは「これっきりこれっきり/もう これっきりですか」である。そう、山口百恵が歌った『横須賀ストーリー』(1976年阿木燿子・作詞、宇崎竜童・作曲)中の一節である。
そこに掲載された写真——鞄を背負った小学生が、長い階段を昇って上に見える団地に帰ろうとしている構図のもの。中に87歳の老詩人長島さんというひとが登場して、横須賀の機密にあふれた軍港としての側面を語っていた。
なんだか、その風景と言い、成り立ちと言い、長崎にそっくりだと思ってしまった。
ボクが、横須賀に行ったのは圧倒的にデモ(空母寄港反対など……)が、多かったが、軍港、ドブ板通りというアメリカ兵相手の歓楽街など歩きまわった時のニオイは忘れられない。
一番、そこと似ている街は、おそらくかっての福生だし、かっての金武(きん。沖縄本島にある)や、コザだろう。
だが、港があり、そこが軍艦の建造までするドックがあったという意味では、やはり長崎に似ているのであった。
この街で育った石内都(写真家)は、この街に憎悪を抱いていたと言う。そして、ふたたび横須賀にシャッターを向けた時、写真集「絶唱、横須賀ストーリー」が生まれた。「横須賀は私の心の傷であると同時に、街全体が戦争で傷ついていた」。

そして、記名記者(朝日新聞・坂本)は最後にこうむすぶ。
「傷は目を背けたくなる存在だが、過去を思い出し、今生きていることを確認させてくれるものでもある。時に人は、傷ついたものにどうしようもなくひかれる」と。

朝日新聞も文芸と言うより、演歌になったものだ。それで、エエンか? というより、なんだかこの結論自体が70年代の五木寛之などを思い起こしてしまう。いま「百寺巡礼」などを書いてすっかり仏教にはまっている方である。五木のスペイン戦争論はどこに行ってしまったのだろうか、などと嘆く前に演歌的な詠嘆にボクもはまらないようにせねばと自戒した次第である。

2005.03.04

NAGASAKI TRIP——市内編<a>

chanponmenginrei_cafe長崎は長年離れていたわりには地図が、だいたい頭に入っている。それでも、そこは自分の故郷と言うよりは旅先の街であるのには、変わりはない。京都や、神戸を訪ねるのと何ら変わりない。ただ、風景が……風景がボクのこころの底にしまい込まれたものを呼び覚ますのだ。
必然のように、長崎駅前から市電で思案橋あたりへ行き、まずはともあれバックバックを抱えたままレストラン・カフェ『銀嶺(ぎんれい)』に入った。いまは建て代えられて下は駐車場の複合経営をしているが、雰囲気と歴史のあるクラシック喫茶だったところだ。ここには西インド会社のロゴマークのはいった皿があったが、今回どこにも見当たらなかった。
そこでまだ幼い顔をしたウェイトレスさんに聞くと、奥まで聞きに言って分からないと言う。「じゃ、手放したのですか?」と聞くと、どうやら「手放す」という意味が分からなかったようである。オーナーはいないし、仕方なかった。
奥の別室で、ちょうど「絵葉書展」が開かれていたが、入った時点ではまだオープンしていなかった。この日(26日)が、最終日と書いてあったのだが……。縁がなかったかと、あきらめて帰りかけたらドアが開かれた。どうやら、縁があったらしい。
作者の満行豊人さんは、退職した元高校教師。ピースボートに御夫婦で乗船して88日間、東南アジアまわり大平洋航路でポリネシア、イースター島と経由して南米へ行き、さらに大西洋を横断しアフリカ周りで帰ってきたと言う実に贅沢な船旅をしてきた(ピースボート主催ゆえの平和を訴え、戦跡などを訪ねるといった意義はあるにせよ)。むしろ、88日じゃ足りなかっただろうと思ってしまうが、退屈しのぎに持参した岩彩で絵葉書を描き、旅の思い出にしたものだが、絵に添えられたひと言がなんともいいのだ。
イースター島のモアイ像を描いた絵に添えられたひと言——「あと何年/人間どもの/愚かな戦いを/見なければ/ならないんだ」。

歩いてホテルへ。帰っても、迎えてくれるところのないボクは今回一泊4,200円のビジネスホテルに逗留した(それは6,300円の寝台料金より安かった)。繁華街の真ん中で、目の前に新地(中華街)がある抜群の立地のホテルだ。必然的に晩飯は、中華街でチャンポンメンを食べようと思った。
そこで、新地では有名な『江山楼』にて30分待ちで、念願のチャンポンメンを食したのである。飲み物は紹興酒「江山」。注文は特上チャンポンだったが、4年前にグラバー邸そばの『四海楼』で食べた「昔チャンポン」という方が、おいしかった(今回、そちらまで足を延ばした訳ではないから比較するにはフェアではないが……)。
帰り酒を近くのダイエーで買って(潰れそうには見えなかったが…)ホテルでH番組を見ながら飲む。しかし、ボカシの入ったピンクなんとかという番組しか見れず、衛星放送では台湾より遅れてるのかしらんなどとバカなことを考えている……。
明日は、どうしようか「花月」に行ってみようか? 迷っていると、いつのまにか眠ってしまった。

(写真は現在のカフェ・レストラン「銀嶺」外面。右は「江山楼」の特上チャンポン1,580円(たしか?))

2005.03.03

ナガサキ・トリップ——「あさかぜ」ラスト・ランに乗る(2)

asakaze_facesetonaikaiボクはB寝台10号車4番上だったが、4番下も目の前の3番上の客もなかなか乗車してこなかった。名古屋を23:46に過ぎると深夜運行になって4:15の岡山まで停車も、乗車もできないのだ。
で、ボクは目の前の3番下に乗車していた少年と話をしていた。聞けば、彼は高校2年生で学校がひけると、栃木から東京駅に駆けつけた。高校2年生は、「あさかぜ」で下関まで行って、一旦、山陽線で新山口まで戻り、そこから山口線で益田まで行き、益田で、山陰線の特急「いそかぜ」(「いそかぜ」も2月一杯でなくなるのだそうだ)に乗って小倉まで行き、新幹線の「こだま」で博多に行き、そこで19:44の長崎発の「さくら」上りに乗車して日曜日に帰って来ると言うまるで聞くだけで腰が痛くなってきそうなスケジュールで今回の旅を計画していた。そう、列車と言う移動の手段、プロセスが彼の旅の目的なのだ。
そして、高校2年生はそれを「あさかぜ・さくら・いそかぜ惜別の旅」と自ら名付けて、その時刻表を細かくプリントアウトして持っていた。
いや、ボクは呆れるより感心してしまった。まして、この高校2年生は、ラウンジカーでオフ会を繰り広げているオタク的なファンとは違うと言うのだ。あんなに、凄くなれないと言うのだ。しかし、どこに行く訳でもなくただただその列車に乗ることだけを目的としている点では、ボクには全く同じではないかと思った。そこで、ボクは先が(帰りの「ラスト・ラン」に乗ることが)思いやられてしまったのである。なんだか、自分の思い出や、感傷にひたるために乗車するのは自分ひとりくらいではないのだろうか、という気がしてきたのである。
どうやら空いていた寝台席の客はラウンジカー組だったらしい。深夜にはやってきてしっかり寝ていったからだ……。ただ、朝方もイソイソと荷物をもってどこか(たぶんラウンジ)へ行ってしまった。話し掛ける時間も、顔も見なかったような……。

2日め。2月26日。宮島あたりで、夜が明け、雪がちらついているのが見えた。瀬戸内海を見ながら、ボクは夕べ話せなかった『夜行列車』(監督・脚本:イェジー・カヴァレロヴィチ、1959/日本公開1963)というポーランド映画のことを高校生に話す。サスペンス映画だったが、車窓に背景の動いてゆく海辺の風景が映りこんで、たいそう美しかった。ボクはこの作品で寝台特急に憧れを抱いたことなどを話す。レンタルビデオで見れますかね? と聞かれたが、ちょっと自信がない。いわゆるハリウッド映画でない名画路線はビデオにしてもあまり置かれていないからだ。この映画をパクって、貸し本時代のつげ義春が短編劇画にしており、そのひょう窃ぶりもボクは愛するものだが、作品集にも収録されていないようだ。たしか、貸し本月刊誌『刑事(デカ)』に発表されたと思う(一時は、所収していた)。

新山口あたりでは、すっかり明るくなり海沿いの風景を楽しんでいると下関に定刻の9:55に着いた。高校生とともに先頭車両に走って、「あさかぜ」のフェースを撮りに行く(笑)。ヘッドマークと言うのか愛称のエンブレムを付けた機関車のヘッドには、人が群がっている。ボクもやっとベストショットと思えるものを一枚ものにした。

そこから、在来線を乗り継いでボクは長崎に向かったのだが、JR九州の列車がそれぞれデザインも、車内も独自のものを打ち出しているのに感心した。ミニチュアモデルまで作って売り出しているのである。

ところで、下関名物の「ふく天うどん」(ふくは河豚のこと)を、テイクアウトで電車内に持ち込んで、朝食代わりにすすっていたボクは、わずか5分ほどで電車は関門トンネルを通過して、なんだか感傷にひたっているヒマがなかったのである(泣)。
((3)へつづく)

2005.03.02

ナガサキ・トリップ——「あさかぜ」ラスト・ランに乗る(1)

yabatafactorytokyo10_asakazeまったく衝動にまかせた長崎行きだった。3月1日のダイヤ改正で廃止される寝台特急「さくら」「あさかぜ」に「あの頃」を重ねて別れを告げてこようという衝動から始まった。で、3月1日朝7:33の定刻通りに東京駅に到着した「あさかぜ」の50年近い歴史に別れを告げる「ラスト・ラン」の乗客となって帰ってきたのであった。

第1日め。2月25日、19:00東京駅発の寝台急行「あさかぜ」下関行きに乗り込む。東京駅10番ホームは、鉄道ファンに、にわかファンまでを巻き込んでカメラの放列だった。この騒動は、結局2/28〜3/1のラスト・ランまで絶えることはなかった。
それに、この列車に乗り込んでいる大半の人間は、他称・自称ともに鉄道ファンが圧倒的で、たとえば4号車のラウンジカーを占拠している連中は、サラダ、ビールを持ち込んでオフ会ノリの宴会を繰り広げていた。
口々にブルトレに関する取って置きの(でもきっと『鉄道ファン』などの雑誌や、本から集めた知識)トリビアを披露している!
ボクは、そこで聞くともなく聞いていてかってこの「あさかぜ」には、豪華な食堂車が付いていたことなどを知る。食堂車の記憶と言うものはあることはあるが、それがどの列車の物だったかのチェックは入っていない。ボクが、列車にそれぞれ愛称が付いていて編成や、デザインが統一されているらしいことを知るのは、ずっと後のことだ。列車はボクにとって、ボクをどこか遠くへ連れ去っていく手段だった。なにしろ、ボクが列車に乗るのは自分の意志ではなく、大人の意志や都合によって、三角(みすみ・熊本県)に、藤崎神社(熊本市内)そばに、そして東京にと連れ回されたからだ。

長崎に生を受けたボクは、あとで触れるが台湾からの引揚者の家に戦後生まれた。台湾でも砂糖関連の投機で成功していた祖父は帰ってきてからも、街の名士だったらしい。政治家や経済人との面識、交流があって選挙応援などにも演説を頼まれたりしていたらしい。その祖父がボクが7歳の時に亡くなり(その葬式も、初盆の精霊船も豪華だった! いまだ、目に焼き付いている)遊び人の父との間に喧嘩の絶えなかった我が家は、経済的支柱を失ったのと同然で、崩壊し離散する。ボクがディアスポラになった瞬間だ。
ボクは東京に根付く2〜3年は主に九州のあちこちを転々と引き回された。おもに熊本が多かったのは、母の出身地だったからだ。
そんなボクが、経済力はないくせに女だけを見つけるのは上手かった父に(誰ですか、お前と同じだと言う人は!)連れられて東京に住むことになったのは昭和30年代のある冬の日だった。
上京するためにのった汽車は、木の硬い席だったから(中国語で硬座というやつだ)寝台特急ではなかったようだ。その時、門司から下関へ関門トンネルで海峡を越えるとき、見た風景が冬ざれた寂しい風景だったものだ。

黒い枕木と、コールタール臭い匂いと、冬ざれた海峡にたたずむ寂し気な立木、そして遠方にあったボタ山、黒い煙りを吐く工場……。

北九州市に合併される以前、このあたりは後背に炭坑をひかえる一大工業地帯であり、新日鐵(新日本製鐵)の前身であった官営の八幡製鉄所などの国策会社が軒をならべていた。敗戦で煙突の煙りも消えていたが、50年の朝鮮戦争のぼっ発により、特需が生まれ重工業は息を吹き返す。開高健原作の映画では「七色の煙」を吐き出す煙突を、希望の虹にたとえていたが、まさしくその20年後には大気汚染の元凶とやっと指摘される七色の煙りとは、重金属の煙ないしは、その危険な雲だったのである。

そして、寝台特急の「さくら」や「ふじ」(大分行き)「はやぶさ」(熊本行き:これにも2000年に乗った)などの列車は、関門トンネルを越えるため下関や、門司で牽引する機関車を交換する作業をするため他の駅より長く停車していたらしい。
つまり、少年時代のボクが記憶にとどめた風景とは、おそらくその連結作業のおりの長い停車時間に見たもののようなのである。

ボクは得々として、自分史を語っている訳ではない。昭和30年代に少年時代を過ごしたベビーブーマー(いわゆる団塊の)世代なら、だれしもが多かれ少なかれのみじめさや、貧しさを体験してきている。そのような一庶民の事例として公にするものだ。だから、最近ブームが続いている「昭和30年代」の、能天気な賞賛にボクは賛成することができない。あらたなベビーブーマー世代をターゲットにしたものだろうという戦略しか透けて見えてこない。

おっと、ブルトレの旅の話から大幅に脱線した。しかし、このような当時の心情を甦らせてみたくて、ボクは今回の「あさかぜ」(本当は長崎直行の「さくら」に乗りたかったのだが…)のラスト・ランに乗る旅を敢行したのだ。
(つづく)

2005.02.23

麺妖なハナシ……チャンポンメン

nagasaki_champ「チャンポン」というのは沖縄方言の「チャンプルー」と同じで「ごたまぜ」という意味があるから、何が入っていても文句は言えない。沖縄の「チャンプルー」は炒め料理だが、「チャンポンメン」はむしろソーキそばなどの中華ソバの系統で、沖縄ソバが島津藩を通じて伝承したものではないかとオイラは、ひそかに疑っている。同じ具を片栗粉でとろみをつけて炒め、麺の上にかけたものは「皿うどん」と称されている(マレー語で「チャンポール」は「混ぜる」という意味があり、また「チャイナ」+「ジャポン」の合成語という説もあることを紹介しておこう)。

オイラは現在「チャンポンメン・闇鍋化プロジェクト」というプロジェクトをひそかにすすめており、かっての「冷やしラーメン」(全日本冷やし中華愛好会)にカウンターした一大ブームをつくろうと考えている。
つまりチャンポンメンのあのクリーム色のスープに隠れて、闇鍋のように様々な食材を、もっと加えようではないかというプロジェクトだ。ヘビを加えれば、精力が倍増するだろうし、赤アリを加えればもっと酸っぱい味付けが可能かも知れない!
それに、そもそもオイラの故郷は「ナガサキ」なのだ。郷土食と言われている「チャンポンメン」をもり立てることは、いわば郷愁に駆られた使命である。いや、故郷に錦が飾れないオイラの断腸の手術なのだ(?)。オランダ坂には今宵も雨が降るのだ! ナニか文句があるか?

(マジな話。チャンポンメンはオランダ料理と和食がチャンポンされた「しっぽく料理」の伝統と、中華料理の「チャンポン」なのですね。で、長崎でも各店ごとに味が違います。麺は独占なのでそれほど違いはなくとも、スープは秘伝です。これは、ラーメンも同じ。で、露地の裏の小さな店がまた絶品なんですよ。なにしろオイラが食べた時は、小さな虫の屍骸までチャンポンされていて、オイラはそのオイシサに感動したのですが、お店の配慮でタダになりました! チャンポンなのに! 面妖ならぬ麺妖なハナシです!)

2005.01.18

10年目の神戸へ……

takatori阪神淡路大震災から10年目の1月17日——もう、10年という月日がたつのだ。あの頃はまだ成人の日が15日で、その休日が過ぎてすぐの大惨事だった。なにが起ったのか、どのくらいの規模なのか、神戸は壊滅したのか、その範囲はどのくらいなのか状況はさっぱり掴めなかった。安否を問い合わせる電話がパンクして、神戸や関西に電話をかけるのは遠慮するようにとTVのアナウンサーが言っていたのを記憶している。

ボクが、その歪んだ街をその目にしたのは、震災から2年の月日がたっていたと思う。震災後に現地事務所をおいたあるNGO団体の長田事務所に手伝いに行ったのだった。高速道路はまだ、復旧しておらず途中から高速バスは下の一般道を走って神戸に着いた。三ノ宮あたりでは、さほど目立たなかった崩壊や、空き地も長田へ行くとまだまだ空き地や燃えた屋根瓦などが残っていた。居酒屋は仮設のまま営業しており、崩壊をまぬがれたわずかの建物も奇妙に歪んでおり、バランス感覚を失いそうになった。

仮設住宅に住む一人暮らしの老人たちの訪問や、行事の炊き出しなどを手伝った。その頃は、震災後のショックもある上に、人間関係、環境の激変に耐えられなくなったのか、仮設住宅での多くの「孤独死」が問題になっていた。同じように、病身の老いた母をかかえていたボクは仮設住宅であった老婆や、老人たちが他人事のように思われなかったのだ。

色々、思い出がよぎってきた。その後、ようとして行方の知れなくなった老婆もいる。心当たりがないかとボクのところまで、電話がかかってきたことがあった。

長田や、鷹取の風景で忘れられないものをふたつあげるとすれば、そのひとつは市民野球場のグラウンドの中に建てられた仮設住宅の風景である。そこではどこ居てもスコアボードが見え、その黒地のスコアボード上に「0」「0」「0」と、白地のスコアが並んでいるのがいまだ目に浮かんで来る。

もうひとつは、地域ラジオ局「FMワイワイ」を訪ねて行った時のことだ。「FMワイワイ」は長田、鷹取に多く住むベトナム、コリア、フィリピンなどのひとのために震災後に多言語のコミュニティ放送をはじめたミニ放送局だった。インターネット放送も始めていたから、現在もネットから聞けると思うが(ちと確認していない)、その放送局兼スタジオは鷹取教会の敷地内にあった。そして、その教会の庭に建つキリスト像はあたかも炎を制止するかのように両手を左右にのばしており、その前で震災で発生した火災が止まったと、言われていた。もう、記憶は薄れかけているが、そのキリスト像とすぐ傍の聖堂がなんとロール状のダンボールで出来ており、その美しさに当時のボクはびっくりしたのだった。
(安くて、軽くて、丈夫なこの建材で建てられた建築物は、その後の災害でも世界各地に建てられたらしい。画像は佐野正幸さんの版画をお借りしました。「炎をくい止めたキリスト像」が描かれています。)

2005.01.06

長谷観音は美しかった!/初詣に行く

hasekannon一昨年の暮れに母を亡くして(だから丁度一周忌ということになる)もはや、自分自身が帰るべき田舎も、迎えてくれるひとも失ったぼくがいまや唯一、身を寄せられる所として北関東の小都市がある。そこに年始の挨拶に行き、三日ほど逗留した。その地方都市は東京から利根川を越えた場所にあり、渡良瀬川の遊水池のほとりにある小さな町だ。それでも、城下町の雰囲気を残す武家屋敷などが残り、情緒のある蔵もあるさびれてはいるがなかなかに好きな町になった。
今年、そこにある「観音堂」に初詣に行ったのだ。TV漬けになっていたために、少し散歩したかった。そして、その日は三が日の快晴に恵まれ、雪は残って道は凍結していたが、なかなかに気持ちが良かったのである。
三大長谷観音のひとつと言われているそうだが、小さい観音堂で、そこに近隣の善男善女が初詣に押し寄せるために道は渋滞し、参道はゴッタがえしている。どうにか、さい銭箱の前までいって手を合わせたのだが、祈ることばを考えているヒマがないほどであった。
そこで、本来は寄進、祈願をするひとびとが座り込んでいる座敷きにまで上がり込んで、護摩焚きをしている僧侶の後ろから観音さまをまじまじと見ることができたのだった。
ボクは、またその名前を聞いた時、巨大な観音像でも建っているのかと思っていたから、その楚々とした観音像に感激したのだった。
それになんと言っても、年頭からなかなかの美人にお目にかかったものだなと、ほくそえんでしまったのだった。

スマトラ沖の地震による津波の被災者は死者15万をこえ、被災民500万と言われるようになってきた。歴史的な悲劇の様相を呈してきたのだ。それに、伝染病などの二次災害も心配される。自分の無力さを痛感するばかりである。

2004.12.29

東京暮色その10(最終回)/東京細雪(ささめゆき)そして小津安二郎のこと

tokyobosyokusnowday窓をあけると「雪国」だった(笑)。年の瀬も押し迫った29日、昼過ぎまで降り続いた、この冬はじめての雪で東京は白くおおわれた。
そろそろ、「暮色」の風景を語る季節は過ぎたのだろう。このシリーズに決着をつける時がきたのだ。

「東京暮色」のシリーズ・エッセイの最後にこれは明かしておかねばならないだろう。
映画ファンなら気付いたはずだ。『東京暮色』は小津安二郎の作品のタイトルだ。じつは、うかつにもこのタイトルを名付けてからしばらくたってボクもそのことに気付いた。「とうきょうぼしょく」という音が気に入って名付けて、そうだったこれは、小津だったと気付いたのだった。

『東京暮色』。19957年(昭和32年)制作。松竹映画。白黒スタンダード。出演は原節子、有馬稲子、笠智衆ら。監督は2003年が生誕100年であった小津安二郎。
昭和30年代の東京が舞台になっている。 笠は銀行の幹部職。父ひとり娘ふたりの父子家庭。長女孝子は子どもを連れての出戻り状態。孝子の旦那沼田は売れない翻訳家らしい。
板の間の台所。木窓の外は深々と雪が降る。炬燵でピースの両切りを吹かしながら「おい!」と娘を呼びつける父。

室内シーンはセットだとしても、昭和30年代初頭の東京の風景が、フィルムに写し取られている。それは、小津映画のテンポでもあるが、なんというか懐かしい、のんびりとした誰もが、貧しくとも清貧という言葉がぴったりの潔く、美しく生きていた時代だ。

街角の看板は「パーマネント」「ベニヤ」。主なシーンとなるのは、笠の家庭だが、その他に雀荘、Bar「ガーベラ」。純喫茶「エトワール」。ラーメン屋「珍々軒」。

妹の方の明子(有馬稲子)は「ズベ公」と呼ばれている。明子は妊娠しているらしい。相手は木賃アパート「相生荘」にすむ大学生憲二。ナヨナヨとし、お姉ぇ言葉を喋る頼りないおとこ。
雀荘で男が、新聞の見出しを見ながら呟く。「売春禁止法施行か……」。売春防止法は昭和32年4月1日から施行された。
純喫茶「エトワール」でマスクをかけた刑事に職務質問され警察へ連行される(そういう時代だったのだ)!
父に問いつめられ姉の孝子(原)は、それをかばう。
「いやぁ、子どもを育てると言うのは難しいものだ」と男手で父子家庭を貫いてきた笠はしみじみと呟く。
「わたし生まれてこない方がよかったのよ」。

この後の豊かな時代に、大量に生み出される反抗的な不良少女のさきがけなのだろうか? 明子は堕胎手術まで受けて、とりつくシマもない憲二の仕打ちに、衝動的に電車に飛び込み自殺してしまう。

電車に飛び込んで死んだ明子に学んで、姉孝子は夫の元へ帰ることを決意する。朝、通勤の身支度をする笠。お手伝いさんが来ている。孫の美智子が残して行ったカラカラを振ってほほえむ笠。

『東京暮色』には、小津安二郎の名作であり代表作と目されている『東京物語』(1953年=昭和28年)とはややニュアンスを異にする家族愛を感じる。それとともに、その後の都会のサラリーマン家庭の淡々とした悲哀のようなものを感じざるをえない。

『東京暮色』が、製作された頃の東京には地方から人口の流入がさかんにあった頃だ。若年労働力が求められ、東北から中学を卒業したばかりの少年少女が「金の卵」ともてはやされて、「集団就職」で上京していた。そのための特別列車も運行されたほどなのである。
いわば、この頃の東京はノマド化し、ディアスポラの漂泊の果てにたどりつく場所となりつつあった初期の頃なのだ。しかし、まだまだ東京生まれの情緒は残しながら、徐々に東京が根無し草の掃きダメとなっていくそのギリギリの時代、暮れてゆく東京の凛とした緊張感のようなものを感じるのだ。

2004.12.28

東京暮色その9/東京パサージュ論

yomisestjunjyostyanakaginzast異邦人の目でありながら、パリの迷宮もしくは路地とも言うべきパサージュを文学の機微に見立てて読み解くと言う作業をライフワークにしていたのはドイツ系ユダヤ人の社会学者ベンヤミンであった。そのアフォリズムで構成されたかのような畢竟の未完の大作『パサージュ論』は、都市を徘徊するかのように、文学の迷路を彷徨い、その地図を描くといった、いまで言えば文学活動もしくは書くと言うことのナビ・システムを作ろうという意図だったのかもしれなかった(ボクはそれこそ晶文社刊の著作集が刊行されだした頃から、読みつづけているにもかかわらずその膨大な思考に見通しをつけることがいまだ出来ていない。これは、生涯不可能のような気がする)。

パサージュは日本で言えばアーケードの商店街のようなものを考えればいいだろうか……。しかし、それにしても町の商工会議所で発案されたかのようないづこも同じ大規模なアーケードが軒をならべる日本のそれとは違って、むしろパリのパサージュの方が大通りから中へ入った通りと通りとの通路のような路地に作られてきたらしい。
だから、むしろパサージュの方がこじんまりとしており、さらに東北と九州の町のアーケードが区別がつかないほど無個性的なこの国のアーケードとはそのおもむきもちがってくるのは当然だろう。日本のそれが、多くの地方都市で観光客をあてこんでいるのは明らかだし、まず全天候型で雨の日も雪の日も買い物ができるといった面で推進されてきただろうことがよく分かる。

だが、ボクはこの国でも下町的な、市場の雰囲気を持つ商店街通りには、それなりの愛着を持つし、とりわけなんというんだろうあの門柱のような顔部分が好きなのだ。「○○商店街」とか「○○通り」とか書いてあるあれである。
それは、以前にも書いているように日暮里の「銀座」で少年時代を過ごしたということが、大きいだろう。ボクの記憶の中に商店街は刷り込まれているし、そのロケーションを愛してやまないものだ。さらには、少年の頃には2〜3軒の店が寄り集まって出来た小さなアーケード市場があり、そこの肉屋で小腹がすいた時、よくアツアツのコロッケにソースをかけてもらったものを買い食いしていた事を思い出す。
それは、曲がりくねった坂の途中に、まるで道を塞ぐかのように出現する故郷長崎の小さな小さな商店を思い出させてくれたためかもしれない。長崎のそれは、ひさしを出したら必然的に向い側の石垣にまで伸びてしまうから、坂道を横断したアーケードが出現するといったものだったが、それにしてもそこに出現する魚屋も、金物屋も、八百屋もどこか東南アジア的な市場なのであった(沖縄、奄美の市場にそれを感じるのと同じ質のものだ)。

ボクの東京パサージュ論はここまでだ。ベンヤミンのように、深い洞察と広い見識で縦横に論じるという訳にはいかない。ここから、たとえば永井荷風や近所にいた先代の志ん生師匠の話にでも展開すれば面白いのだろうが、ブログじゃ無理だ。最後にセレクトした写真の説明を付け加えておく。

一番左は「谷中銀座商店街」の顔。「ポエムロード」と書いてある。粋なネーミングだね。
そして、中。夕暮れの高円寺「純情商店街」の顔部分だ。このネーミングにもある詩人の書いた小説がからんでることは知ってるよね。
右は「よみせ通り」。団子坂にも動坂にも住んだボクには懐かしい通りである。昔、夜店が立ち並んだらしい。途中に、荒神さまがまつられている社がある。ここのまつりが賑やかだったらしいのだ。

2004.12.27

東京暮色その8/旧近衛師団司令部庁舎

konoe_2konoe_3皇居の脇、東京北の丸公園の一画にある近衛師団司令部庁舎のゴチック様式の建物がかっての偉容のままに東京国立近代美術館の別館の工芸館として使われているのを御存知だろうか?
すぐ横を首都高に入るジャンクションがあって、こんなところに? と、ふとタイムスリップに陥りそうな感覚の場所にそのレンガ作りの重厚な建物は建っている。実際そこに立てば、過去と現在の入り交じる風景に奇妙な感覚を覚えるはずだ。
もちろん、それは重要文化財という指定があり、とはいえ内部はコンクリート構造にあらためられてカビ臭い昔の建築物という訳ではない。しかし、外壁だけでなく、正面のファサード部分、つづく玄関ホール、階段、踊り場あたりにはそれはかってのこの建築物のいかめしい、近衛師団の司令部があったという息詰まるようなアウラは残っているのだ。
ボクが行ったこの日(実は、12月8日にここに来るために訪れたら休館日で、フラフラとそのまま靖国神社に行ってしまったのだった)、現在の使用方途である「国立近代美術館工芸館」としては、人間国宝である富本賢吉をとり上げた「人間国宝の日常の器」という企画展をやっていた。工芸も嫌いではない、むしろ民芸運動には興味を持っている。しかし、日常の器を展示ウィンドウのこちらから眺めさせるだけ、という展示の仕方には、正直反発を禁じ得ない。
だって、そこにはコーヒーカップも、きっとそれで食べたらうまそうな「カレー皿」もあったのだ。そいつは、使われた方がどんなにか幸せな作品(食器)だったことだろう。実際に、コーヒーを飲み、カレーを盛った方がよりよく鑑賞(!)できたのではないだろうか?
ボクは申し訳ないが建物の中を見るために入場料を払った(それでも破格の200円)。ここには、もう、幾度も来ている。この建物を発見(!)した時は、正直驚いたが、このような保存の仕方は支持する。使いながら、歴史的建造物として保存する。工芸品もそのようにありたい。昨日、書いたフルクサスの運動のように、コンセプチャルなアートがどんどん日常的なものになり、芸術としての閾(しきい)を低くしているのに、本来、日常の中の器や、食器であるものが、どんどん手の届かない、触れ得ないものになっていくということ自体をおかしいと思わないならそれはもう、硬直した死んだ思考だ。権威とか、権力とか、そういう別のものに成り果てているのであって、それはもう「コーヒーカップ」でも「カレー皿」でもない。
使途を失った器や、食器はもはや「工芸」でもない、ただの物だ。ローマのエジプトの遺跡から発見された貴重な遺物——使用価値を失った「もの」であろう。

テーマがずれてしまった。しかし、この建物が明治43年(1910)に建てられたと言うこと(日露戦争ぼっ発の6年後)。帝国陸軍の技師であった田村鎮(ただし)の設計によるものだ。と、そう書いたらそれ以上に書くべきことをボクは知らない。ただ、ここに佇むとかっての否定されるべき、軍国主義一色だったこの国の事実としての歴史の息吹といったものを感じることができる数少ない場所だと思うのである。

かってこの国は、旭の昇る姿を軍旗にしていた。世界に対し、西洋列強に学び、富国強兵で追い付き追いこすことを本気で信じていた。天皇制のもとに、結集し、やがて軍部の独走となった。世界に対し、国民を含めて誇大妄想的な夢を見た。まるで、劣等感の裏返しのようなものだった。軍部は、国民を鼓舞し、マスコミやメディア、ジャーナリズムもそれにつき従った。軍からの報道をそのまま流すと言う、宣伝機関になりさがった。画家や、文学者も翼賛体制の中で、国の戦争遂行政策の宣伝媒体にすぎないような作品を垂れ流すことになった。そのような時代が現実だった時間が、おおよそ80年あまりこの国の上に流れたのだ。
この場所も、そのような証言者のひとつであると思う。この国の中で流れた、異様な時間を記録している建築物のひとつであると思うのだ。

2004.12.23

東京暮色その7/井之頭恩寵公園

hanakoまだ12月上旬の井之頭公園は、深い秋のおももちだった。東京中の公園の中でも、井之頭公園はどこか若者がたくさん集まるファッショナブルな雰囲気があるのも、ミニ竹下通り化している公園通りのせいだけではないだろう。
大道芸のパフォーマーがおり、ストリート・ミュージシャンがにわか仕立てのステージをひろげ、恋人たちに占有されるボートをうかべる池があり、幼児でいっぱいの動物園があり、閑散とした彫刻館(長崎の平和祈念像で知られる北村西望は生前ここをアトリエにしていた)がある。いまや、大人気の「ジブリ美術館」も公園の一画にあり、実にバラエティにとんでいるのだ。つまり、恋人たちはもとより老人たちから幼児までが楽しめ、草木に親しめると言うなかなかにすぐれた公園で、それが吉祥寺の駅から徒歩10分もかからない距離にある。とはいえ、この公園も少し昔はさびしいところだった記憶がある。

吉祥寺の駅が、まだ高架になっていなかったころ(70年代の初め)、駅前にビルもアーケイドもなかった普通の地味な街のひとつだったころ、公園の周辺は閑静な住宅街だった。いや、それはもちろん中産階級以上の資産家でなければ家を建てられなかったが、埴谷雄高や、金子光晴や翻訳家や学者が好んで井之頭公園の周辺に住んだ。70年代のある日、いまもある古書店や商店街で、詩人の金子や、「死霊」の作家・埴谷雄高が散歩する姿が見れた。現在なら、そう、仕事場へ通ってくる楳図かずおくらいだろうか?
歌声喫茶「灯(ともしび)」吉祥寺店、その跡地に出来た伝説のライブハウス「OZ」、すこし後には武蔵野タンポポ団の拠点となった「ぐわらんどぅ」が出来、「ファンキー」によく通い、いまやマスターが売れっ子のジャズ評論家になった「Meg」もできたころだ。

ボクはまだマンガ家で、どうにかエロマンガを描いて、暮らしもカツカツで生活できないくらいの原稿料を稼いでいた。
自分が東伏見にあった都市型コンミューンを出て、上石神井のその名も「ときわ荘」におんなと住んでいた頃で、当時の友人が住んでいた吉祥寺の(よくそのアパートの一室に泊まったものだ)その住所をペンネームにしていた(その名前を明かそうと、書きかけてネット検索をかけてみたらなんと2件も出てきたので明かすのはひかえることにした。ネットはこわいものだね)。

さて、その頃もよく見に行った井之頭動物園(正式には「井之頭自然文化園」)に、この日も「はな子」に会いに行ったのだ。いや、このアジア象は戦後すぐに敗戦国日本の子どもたちを喜ばせるためタイ王室から贈られたらしい(ウロおぼえの記憶によるので正確には知らない)。だから、年齢もボクと近く、若い母親が「ま、結構オバァちゃんなんだ!」なんて、隣で言われるとムッとするのだ。「中年と言え、中年と!」と訂正したくなる。しかし、はな子の檻の前に抜けた立派な臼歯が飾ってあるのを見ると、なんだか悲しくなってくるのだ。
そう、今日はゾウの話でボクの話ではないのだった……。

はな子は、外で軽く運動をしていたが、しきりに象舎の中に入りたがるそぶりを見せるので、何かと思ったら夕食の時間だったのだ。右側に回り込んで檻の前にたつと、飼育係のひとから食パンとキャベツを十数個与えられていた。はな子は器用に鼻を使って、それらを口に運ぶ。なかなかに愛くるしいヤツだ。
しかし、こうして老いて(いや、中年です)孤高なすがたを見ると少しかわいそうになってくる。タイでも、象はいまや都会では見るのが珍しくなった。きっと森林の減少と共に象も、まして野生の象などは希少になっているのだ(「象まつり」のあるスリンでは良く見られるが……)。

孤独なアジア象はな子の姿を見て、象舎を出ると、その象舎の前の広場に1本たつ銀杏が、葉を落とす前の黄金色に身を輝かせて、やはり孤高に暮色を深めていたのだった。

2004.12.22

沙羅双樹の梢を風は吹き抜けた——『沙羅双樹』(河瀬直美監督作品/日活・2003年)

syara_01河瀬直美の映画には、いつも風が吹いている。河瀬の作品の真の主人公は、風だ。
ひとが登場し、ひとの営みがありそれも常に奈良という風土にこだわりつづけ、国内よりも海外で評価の高い河瀬は、長い移動撮影や、手持ちカメラでパンしていきながらゆらぎ、そよぐ風をとらえようとしているように思える。
ひととひとが出会い、少年は恋し、少女のこころはゆらぐ、母は自宅出産し、父は地域の新しいまつり「バサラ祭り」の盛り上げに夢中になっている。風土があり、風景があり、自転車でまた少女と手をとりあって走り抜ける路地がある。17歳の少年少女のこころの中にも、その土地に根付いたようなお年寄りにもそのこころの中に吹いているのは風だ。

今年の映画ではなかったかもしれない。一時は河瀬がたんねんに、描いて行く暮らしがなんのための表現か分からなかった時期もある。そのセミドキュメンタリー風のタッチで、自らの出自、故郷を描いて何が言いたいのかと……。前作の『火垂(ほたる)』で、ストリッパーの主人公がフェリーからながめる白い波頭が、青々と繁り実った田畑に多重露光されて変わった時、ボクのこころもそよぎ波打った。
河瀬が描きたいものが、はじめて分かったような気がした。

『沙羅双樹』(日活/2003年)は、奈良のひと夏が舞台だ。まつりの準備がされ、「地蔵盆」があり、「バサラ祭り」をへて夏の終わりの出産シーンで終わる(母の役は河瀬自身)。生命はあらたに生み出され、営みは継承され、こころはそよぎ、風は吹き渡って行く。
ラストシーンでは、カメラそのものが風になったように奈良のいかるがの上をゆらゆらと空撮していく。UAのボーカルが重なって、クレジットが流れる。

なぜ、あらためてこの作品の事を書きたくなったかと言うと、DVDで見直したのである。特典映像としていわゆるメーキングだが、本編と同じくらいたっぷり入っている(「2002年の夏休み」と題されている)。それを見て、さらにわが意を得たような気がしたのだ。

実は、矛盾だらけと言うか、話しとしては整合性が欠けた内容なのだ。主人公しゅんは5年ほど前のまつりの日に、双子の兄弟けいを「神隠し」のように路地で見失ったまま成長した。ガールフレンドの夕(ゆう)は、母に自分の子ではないとある日、言われる。しかし、そこまでで映画の展開には何もかかわってこない。

主人公しゅんの役をやった福永幸平クンはボクの年若い友人のひとりである。奄美大島出身のミュージシャン志望の青年だ。まだ少年の面影を残す純朴なヤツだ。10代の最後の年にETV「十代しゃべり場」という番組に出演していて、それが河瀬直美との出会いになって新作映画の主人公に大抜てきされた。
夕の役をやった兵頭佑香は、千人のオーディションからえらばれたはっきりとした面だちの美少女だ。幸平クンが、個人的に未練たっぷりだったことが、メーキングで分かるがそのような娘さんである。

映画と言うものは残酷なものだ、というのがボクの勝手な思い入れのレベルでの意見である。観客には、癒しや娯楽となっても、俳優や出演者にはトラウマを与えることもあるのではないかと思うからだ。
俳優または演じるものの肉体から、他者の人生が忍び込むこともあるのではないかと、「憑依」や「トランス」に興味をいだきつづけてきたボクは思ってしまうのだ。

評価(★★★★)

(画像は河瀬直美撮影の写真「沙羅双樹」より)

2004.12.20

レトロな味わいは「珈琲時光」で……

coffee_jikoあと10日あまりで終わると知ったので新宿南口テアトルタイムズスクエア(要するに高島屋の上階だが)に侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の「小津安ニ郎生誕100年記念」と銘打たれた『珈琲時光』(2003年松竹)を見に行く。ボクも一時ハマってファンである一青ヨウ(字がない)が出演した映画というのもあるが、なんといっても『非情城市』で、打ちのめされたボクは侯監督の作品ということで、見に行ったのだ。しかし、期待は肩透かしをくってしまった。

それにしても、電車がたくさんでてくる映画である。主人公陽子が住む鬼子母神から大塚に出る都電荒川線。帰省する陽子が乗る高崎線。山手線。そして陽子がよく寄る古書店(店主肇役は浅野忠信)があるお茶の水へ行く中央線(聖橋から撮った風景が、この作品を「東京物語」にしたのかもしれない)。高円寺の都丸書店も出て来る。有楽町のガード下の小さな喫茶店。東急池上線。
小さな郊外電車やチンチン電車。小さな喫茶店。狭い古書店。陽子のひと間の下宿。侯監督の古いものや小さなものへの偏愛を感じる。
セリフはその場で俳優の思いつきではかれたものだと分かる。セリフは物語を進行させない。登場人物の背景を語るにしても寡黙で曖昧なものだ。陽子がフリーライターらしいことは分かる。しかし、高崎の実家でまつ母が生みの母ではなく父の後妻らしいということや、陽子が向こうに彼氏を作るほどひんぱんに台湾を訪れる理由とか、妊娠したその後とか物語はある断片が提示されただけで、それ自体東京の風景のように曖昧に示されて終わってしまう。それも、ふいに、終わる必然もなく……。

これは、きっと台湾人である侯監督の目に見えた東京なのだ。見なれた東京は侯監督の視点をフィルターとして懐かしいと言うか、美しくもある。
そして、古い東京をさがすその意味もよく分かる。ボクも台湾で古いもの、つまり日本の植民地だった時代(おおよそ半世紀50年間である)の名残りのようなものばかり探していたから……。 台湾は首都である台北のみならず、島全体の沿岸沿いにぐるりと汽車(中国語で火車)が通っているだけで、あとはどこへゆくにもバスがメインである。で、思い直したが、実は線路や汽車はあるにせよ、東京ほど縦横に電車がはりめぐらされ公的交通手段の主たるものが電車であると言う首都は他にはないかもしれない。少なくとも、ボクは知らない。

陽子は戦前、つまり植民地時代(すなわち台湾人も表層的には「日本人」だった)クラッシックの作曲家だった江文也を調べ、その足跡を追っている。映画の中で流れるのはこの江の作曲したピアノ曲である。陽子は池上線の洗足池まで江の遺族に会いに行ったりしている。この映画のストリーらしい骨子というのは、その陽子の探求(クエスト)の物語だと言うことは、かろうじて観客には伝わる。しかし、それでなにかが見えてくる訳ではない。陽子が江についての調査をもとにしてなんらかの記事や原稿をものしたのかは語られない。
まるで、クレジットタイトルに登場する映画評論家で東大総長である蓮見重彦が、スクリーンのなかでは登場しないようなものである(そのシーンは監督の手によってはさみで切られたらしい)。
最後に、映画の評価を。(★★1/2)

(ここからは、オフレコです)大好きな侯監督のあまりにもラフすぎる(?)今回の作品は、その出資先が日本マネーということによるかっての植民地本国への復讐に燃えたものと感じるのは、ボクのうがちすぎか?
なにしろ一青ヨウを抜てきしたところにも、それを感じるのだが……?
小津安二郎へのオードをやっているのは、ひとり何も喋らずに「あ〜。お〜」と言って背中で演技しようとしている父親役の小林捻侍ひとりであるようにボクには思えてしまった。いや、小林さん、あなたが一番「演技」してらっしゃいました。そう、好演です!

画像は公式サイトから→http://www.coffeejikou.com/index2.html
まだ予告編が見れます。(C)松竹
(この記事は10月11日に『凶区ブログ』に書いたものですが、2004年の映画回顧という意味でこちらに再録しました)

2004.12.16

アルファ・ケンタウロス人としての自覚と決意

tangerine_alpha(なんだか唐突な始まりだが、「宇宙人」というのはボクの友人Oが、最近好んで使っている言い回しだ。いわば、表現形態がアヴァンギャルドであることを言っているらしいのだが、それ自体エイリアンとか異形なものというニュアンスも含めているとボクはかってに解釈している。というところを導入部にしておこう。なんて、親切なブログだろう? で、中で触れていることはボクの真実の物語でありますが、これは内緒話ですよ。ネッ。)

「宇宙人」と名乗ることはボクには「痛み」がともなう。こころのファントム・ペインだ。
というのも、それはボクが18歳くらいの時、年上のたしか23歳くらいのおんなと別れる時に使ったセリフなんだ(笑)。
いや、その時に流れた異様な雰囲気をいまここで説明しようもない。相手はキツネにつつまれたような顔をしてるし、ボクはSFファンの意地くらいの気持ちで、必死になって説得していた(後腐れないよう別れたかった)。言っているうちに、自分でも本気になってアルファ・ケンタウロスから来た、使命を帯びた「宇宙人」のような気がしてきたんだ(ボクはSFファンジン『M31』というのを中学時代から主宰するSFファンだった)。

で、それからだ。ボクは地球生活になじみすぎて忘却してしまった自分の宇宙人としての「使命」を探しだしたんだ。ボクは、アルファ・ケンタウロス星人としての使命をどこにとり忘れてしまったのだろうって……。

ケンタウロスのことはギリシャ人がよく知っている。なんらかの交流やコンタクトがあったに違いない。ケンタウロスはボクらの種族の本来の姿をしている。この地球では、まさしくキマイラとしか言えない姿だ。
上半身は人間と同じだが、下半身が馬なのだ。ゆえに、手足が6本あることになる。そして、ボクらの種族は精力絶倫だ。この星では、たまには牝馬とも交わってみたが、やはりいけない。人間のおんなと後背位で交わる方が、まだましだ。

そして、ボクが年上の女と別れて以来、探しつづけてきた「使命」はまだ見つかっていないのだ。悲しいことに、アルファ・ケンタウロス人としての「使命」を忘却してしまったボクは、「地球人」として、この地上で生き死ななければならないのだ。そうであるのならば、せめて、せめて……ボクをあまたの星のカケラのひとつとして、この星の土にしておくれ! ボクの故郷のアルファ・ケンタウロスには土がないんだ。地球のような生態系の循環と言うものが存在しない。だから、この第二の故郷の豊かさがうらやましい。そして、その星に生まれたものたちの傲慢な、どん欲さが信じられない。この星の人間たちは、自らの星を汚し、唾棄してやまない。暗黒の宇宙空間の中で、奇蹟のようなこの星の美しさを汚そうとしていることが、信じられない。

そう、どうかボクの亡骸は「樹木葬」でお願いしたい! この豊かな星の久遠の、循環の中にわが身をゆだねてみたいから……。
(ボクの正体を含めてこれは内緒の話ですよ…。秘密にしておいてくださいね)

(画像はボクが70年代から惚れ込んできたタンジェリン・ドリーム『アルファ・ケンタウリ』ジャケット)

2004.12.10

東京暮色その6/高尾山薬王院

iduna
kalura世代的に言って、貸本屋さんに昭和30年代のある日、分厚い銀色の表紙の『忍者武芸帖』(三洋社)が並んだ時の衝撃を覚えているボクは、その作者である白土三平から多くの事を学んだ口だ。白土の劇画には、たびたびコマの展開の中に、欄外とも言うべき解説が加えられており、ボクらはそこから初めてのトリビア、雑学を学んだ。たとえば、アムリタのようなドリンク剤「醍醐」とは何かと言うことや、薬草の知識としての本草学のことや、集団の無意識下に働きかける「幻術」のことやら、サンカの存在もその作品で知った。白土の解説は短かったが、微に入り細に入り実にリアルな解説で、少年であるボクらのみならず大人たちも知らないことをたくさん教えてくれた。
そして、『ガロ』(青林堂)に連載された大河歴史劇画作品『カムイ伝』で(『ガロ』およびそれを発行した青林堂は、貸し本専門の版元だった三洋社の長井氏が白土三平の作品を出版するために立ち上げたもの)マルクスを読む前のボクらは、階級闘争理論に簡単にオルグされてしまった。今から考えて見れば、動物作家でもあった白土の(「シートン動物記」などを劇画化していた)このダーウィニズム的な進化論、弱肉強食理論があまりにも人間の歴史分析理論のひとつであった階級闘争理論と(『カムイ伝』ははじめ狼の動物記的物語として出発する)単純に混同されていたことが分かるのであるが……。

そして、白土三平に教えてもらった雑学のひとつに「飯綱(いづな)使い」というものがあった。抜け忍カムイの必殺技も「飯綱落とし」というプロレスのパワーボムみたいな技である。そして、サンカもしくは被差別部落の出身であるらしいカムイは、飯綱使いの一族であるらしかった(細かい設定はウロ覚えである)。
で、その飯綱使いとは何かと言うと、飯綱つまりエゾイタチらしいが(ということは、あの可愛らしいオコジョでもあるらしい)それを自在に使役する一族である。この飯綱が、稲荷の狐と混同されて結びついた日本独自の混淆信仰があるらしい。
古来、狐は稲荷信仰を通じてインドから渡来したダラニ信仰(密教)や、古神道の修験道と結びついて飯綱権現という神でも仏でもないスーパー・パワーの存在を生み出すのだが、修験道の役の行者伝説とここでも結びついてあの「天狗」になる。

さて、紅葉にはまだ早かった11月のはじめ、ボクは「紅葉狩り」などと洒落て高尾山に昇ってみたのだったが、そこで知ったのだ、高尾山薬王院は薬師如来と飯綱権現が本尊とされているらしいことを…。
ここでの飯綱大権現は、不動明王の姿をし、より混淆の度を深めていらっしゃる。
このような混淆信仰は一般に東南アジアの特徴と言われているが、充分日本も混淆しているようだ。坐位で交わった姿のダキニ(チベット仏教の仏の姿で有名)、烏天狗のルーツであるカルラ天(ガルーダ)、不動明王と修験道である。ひも解くのは難しい。
はた目にはそうは見えなくとも、山頂までケーブルカーで昇り、茶店で饅頭を喰らってくるだけでない見識を広めに(?)、ボクは行動しているのである(これを行楽と称している)。今日の「東京暮色」はひと月前に行ったのだったが、高尾山薬王院。冬ざれる前に巨木の上の「天狗の腰かけ」に座ったつもりで、東京の山の景色を満喫した。ちなみに、とくに強調しておくが、下山は徒歩だった。

(「東京暮色」の「その5」がないと、お気付きの方。「その5」は「ダブル・ファンタジーその1」の『靖国』です。

2004.12.08

ダブル・ファンタジーその1/靖国——安らかなるクニ

teropyasukunitorii導かれるように靖国神社へ行ってしまった。言うまでもなくきょう12月8日は、1941年に真珠湾攻撃という奇襲作戦によって日本が、太平洋戦争の端緒を開いた開戦記念日である。この日からマレー上陸作戦などの南進・侵攻によって、東南アジアおよび大平洋地域に壮大な大東亜共栄圏という幻想の大帝国の見果てぬ夢を見た日である。

そして、戦後世代のボクらにとっては、1980年のこの日、ビートルズ時代から一貫していわば、生き方のモデルのようなものを示し続けてくれたジョン・レノンが射殺された日である。今日も、ボクは「Double Fantasy」と「Season of Glass」などのレコードを掛けながらジョンを偲んでいる。

そう、なんというか「ダブル・バインド」なのだ。この日がくる度に、ボクはどちらのことをメインに考えようかと迷ってしまう。もちろん、戦争のことは知らない。ボクが生まれる前に、戦争は幸いなことに終わってしまった。その戦争が終わらなかったら、ボクはこうして存在していなかっただろうし、若い世代を含めてこの世にはおらず、またこのような日本の繁栄も、きっとなかっただろう。

いまは語りたい気持ちをおさえて、ジョンのことは置いておく。なぜ、靖国神社にボクがたどりついたのか自分でもよく分からない。そのうち書くだろうが、ボクは近代美術館工芸館(竹橋)に行くつもりだったのだが、今日はあいにくの休館日で北の丸公園の中を歩き出し、数々のバンドの来日コンサートの会場となった(そしてボクらの世代にとっては、ビートルズの来日公演で有名になった)武道館を通り過ぎ(8日は「ゆず」のツアーのファイナル・コンサートの初日らしく十代の子たちがたくさん群れていた)、靖国神社に入っていた。
開戦の日に靖国神社ならなにか催しをやっているかもしれないと、ふと考えたのかも知れない。実際には、とてもつつましやかだったが、奥の休憩所のようなところに、「大東亜戦争忠魂顕彰六十三年祭」という看板と、記名所があった。そして、拝殿では玉串を捧げて祝詞があげられていたから、きっとこの看板のもとに集った遺族の方々の神楽祭でも、あったのだろう。
しかし、それは国の行事ではないし(それはそうだ。開戦を祝ったのでは戦前の天皇制国家と同じになってしまう)おそらく遺族団体が自主的に行っているものであろう。
しかし、終戦記念日のにぎわいに比べれば、その端緒の日はかなり寂しくもあった。
神社の奥に「遊就館」という真新しい建物がある。靖国神社に祀っているという246万6,000余柱の御霊に関連する「歴史博物館」という事になっているが(2002年=平成14年に開館)、別の見方をすればそこは「戦争ミュージアム」でもあるところだ。血塗られたこの国の歴史を数々の文物で、明示しているのだが、本物の零戦のホール展示を含め、大砲や武器が陳列されている。
1階のショップには、なんと本物の日本刀まで販売されている! 武具屋でもない、お土産コーナーのようなショップで抜き身の日本刀が売られているのは、おそらくここだけかもしれない。それを異常とも思わない感覚は、なにしろ使用はできないだろうが、本物の武器がショップのまわりにあるせいかもしれない。

受付のところのテロップに、本日の電光ニュースのようにして「米英両国に宣戦の大詔煥発=大東亜戦争開戦……海軍機動部隊、ハワイ真珠湾奇襲攻撃……」と流れているのが、印象深かった。
<63年前の出来事を忘れない>という決意より<63年前を今日にする>という恐ろし気な意志のようなものを、嗅ぎとってしまうからだ。
もともと戊辰戦争や、上野戦争で亡くなった御霊を祀り慰霊する「東京招魂社」として建造されたこの神社は、精神史のアミューズメント・パークの意図が最初からあった。当時は頓挫したのだったが、国家神道にもとづく歴史博物館の意図は、明治の頃からあったらしい。「遊就館」は、その意味で一貫した国家的な意志が貫かれたものかも知れないが、現代と言う時間からみれば展示の仕方も含め、奇妙に浮いた印象があり国民的な批判にさらされなければならない点が多々あるのではないかと思われる。

2004.11.30

うつし世は夢 夜の夢こそまこと

geneijyo「幻影城」に行ってきた。西池袋5丁目にある立教大に隣接する形で建っていた江戸川乱歩邸は数年前、立教大に買い取られ、その乱歩の膨大な蔵書の書庫であった土蔵は修復修理のうえ今回、その建設当時の鼠漆喰壁に再現した上、一般公開されたのだ(8/19〜24)。
メインは東武デパートで同期間開催される『江戸川乱歩と大衆の20世紀展』であるのだが、入り口でガラス越しに見るだけだったとは言え、「幻影城」に一歩でも足を踏み入れられたことは感激だった(平日にもかかわらず40分待ち)。
というのも、戦前から活躍していた乱歩が戦後復活したのが、月刊誌『少年』に連載をはじめた少年探偵団シリーズであってそれはラジオ、のちにTVというメディアにのって全国の少年少女の胸をワクワクさせたのであった(ラジオは養命酒の提供で、昭和31年〜33年。ちなみに乱歩の少年ものはすでに昭和11年に『少年倶楽部』に掲載した「怪人二十面相」がある)。
幼年時代、姉は『少女』、ボクは『少年』を定期購読していたほど裕福な家に育ったボクは乱歩とアトムで幼年時代を過ごしていたらしい(少年時代に没落して、その後はディアスポラとなる)。もっとも活字を読めていたかどうか心もとないのできっとイラストを眺めていたのかもしれないが……。
貧しさの中で貸本屋に通った昭和30年代(東武デパートの会場にも「いけぶくろ書店」という貸本屋が再現されていた)、漫画、劇画の棚の向いには大衆小説(たとえば、山手樹一郎、大薮春彦など)の棚があり、乱歩はかならずあったものだ。もうその頃には、ボクの関心は『影』や『街』『顔』『刑事(デカ)』などの月刊劇画誌に移っていたが……。
 
ところで、タイトルの「うつし世は夢 よるの夢こそまこと」ということばは乱歩が、晩年よく色紙等に書いていた好きなアフォリズムだったものだ(ほかには「昼は夢 夜ぞ現(うつつ)」。幻影城通信にも出てくる))。『少年』を愛読していたボクも、暗い土蔵の中で蝋燭をともしただけで執筆している乱歩というイメージを植え付けられてしまっている。夜な夜な「幻影城」の中であやかしの物語をつむいでいる乱歩というイメージが出版社によって作られたものだったとはいえ、現実には常識人であり生活人だったと言う平井太郎(本名)がE・A・ポーからとった江戸川乱歩となって「夜のゆめをまこと」にすることに腐心したと信じることは、この国の最大の探偵小説の大家であり売れっ子作家であった乱歩の書くひととしての真実であったのだろう。
(8月23日記。この記事はこの夏8月19日〜24日にわたって一般公開された「幻影城」を訪問した際の感想の再録です。この事に、触発されて書いた物語を4日の土曜日に朗読します。その告知は明日あらためて)

2004.11.29

日暮の里は秋色に染まった

午前の光の下で、久しぶりに行った日暮の里は秋色に色付いて美しかった。木々の葉は秋が深まったことを、教えてくれたしそのボクにとっては親しい街を、さらに心地よい場所にした。秋が寂しい季節だと言ったのは、誰だろう。秋がこんなにも青空の下で暮れない色に色付くのだとしたら、人生の秋というのも美しいものかも知れないなぁ、などと柄にでもないことを考えてみる。

この街にこんな午前と言う時間にいるということすらが、数十年ぶりだ。ぼくはこの駅「日暮里」の西口の谷中銀座の一画で、多感な少年時代を過ごしていたのだ。夕焼けだんだん(階段の愛称)の真下にあるジャズ喫茶『シャルマン』を基点にして、銀座や渋谷のジャズ喫茶めぐりをし、そして新宿にいきつくのだ。
この街のこの駅から、秋の日も冬の日も電車に乗って高校にも通ったし、毎日のように夕焼けだんだんを昇り降りしていた。
そして、こんな晴れ渡った秋晴れの午前と言う時間をこの場所で過ごしたことがあったにもかかわらず、ボクの記憶と印象の中では空は曇っていた。どんよりと厚い雲がたちこめていた。そう、それはボクの当時の心象そのものを反映しているからに違いない。10代後半のボクは暗かった。ペシミステックな考え方しかしなかったし、死ぬことしか考えていなかったから……。

朝倉彫塑館に行ってみる。建物はおそらく昔のままだ。ボクが少年の頃、ここの主はまだ女性主人(朝倉摂さん)ではなかった。ただ、当時ボクはこの黒塗りの異様な建物がなんだったのかを理解していなかった。きっと奇妙な金持ちが住んでいるんだろうなと思っていた。たとえばそう、江戸川乱歩のような……。
「谷中銀座」の通りの「よみせ通り」と交差する道のアーケイドの看板に新しいコピーが使われていた。ちょっと記憶が曖昧なのだが、たしか「谷中ぎんざ/ポエム・ストリート」といったものだったと思う。ボクは、この谷中銀座のつきあたりにある信用金庫の建物の社旗が、強い風の日にバタバタとはためく音を聞くほどの距離に住んでいた。もうひとつ先の不忍通りには、まだチンチン電車(都電)が走っていた。東京中の通りには、重た気な黒い電線がぶら下がり、都電のパンタグラフがクラッシュして火花が散った。

この街の思い出話をするとキリがないのだが、その内容もきっと今となってはまぼろしの街、昭和の「古きよき思い出」としてとらえられるのかも知れない。森まゆみさんのようには、上手に語れないかも知れないが、この「日暮の里」のことを語るのも一向かと思えてきた。ひとつのテーマに掲げて、ゆっくりと語って行くことにしよう。
(予定外の行動だったためデジカメも持参していなかった。きっと美しいショットを、午前の光の中でとらえられただろうに残念なことをした)

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